36.

 正樹からその連絡があったのは、濃密な時間を過ごした翌日だった。


「ごめん、紗江。仕事中に。今、いい?」

「はい、大丈夫です」


 どちらにしろ、昨日の今日で仕事にならなかったのだ。あの時の熱がまだ紗江の中で燻っていた。


「出張で今から出なくちゃいけないんだ。長期になりそうで、しばらく逢えなくなる」

「そう、ですか…」


 しばらく逢えない。ただそれだけの言葉に心が重く沈むのを感じた。


「できる限り電話するし、メールは必ず送るから。待っててくれる?」


 そんなこと聞かれなくてもそうするに決まっている。紗江は勢い良く「はい」と答えた。


「そう、よかった。それじゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい。気をつけて」


 よほど急いでいたのだろう。紗江の言葉を最後まで聞き取ったかと思うと、即座に電話を切ったらしい。携帯電話からの規則正しい切断音が紗江の耳にいつまでも木霊した。


 最初の数日はまだ良かったのだ。夜遅くではあったが直接声も聞けたし、何より体にあの熱が残っていた。一週間過ぎると、電話がかかってこなくなり、もっぱらメールだけになった。長かった文章が少しずつ短くなり、人が寝静まった時間に送信されるようになった。


 忙しい、のだと思う。それを責めるわけにはいかない。仕事なのだから。






「この間もそう言ったよな。そりゃ、わかるよ。お前のチームが今忙しいってことは。だけどさ、少しでもいいから俺に逢いたいって思わないのかよ」


 その日も紗江はかなり遅くまで会社に残っていた。約束していたわけではないが、彼には今日も逢えないことを先ほどメールしたばかりだ。忙しくて、つい、遅くなった。そうしたら、メールではなく着信があった。ディスプレイに表示される名前を見つめながら少し躊躇ったのだが、出ることにした。電話に出れないことはないことを、同じ職場にいる彼は知っているはずだから。

 入社して三年。少しずつだが仕事も任されるようになってきていた。やっただけの事が認められる。それがとても楽しくもあり、嬉しくもあった。そう、恋よりも。


「なあ、ちょっとでもいいから、逢えないのかよ」


 気持ちに任せて声を荒げた後は、決まって甘えた声で懇願する。同期の誰も知らないようだが、青木という男は他人からの『頼れる男』という印象とはかけ離れていた。それは恋人である紗江の前だからかもしれなかったが。


「ムリ、よ。忙しいもん」


 いろんな時間を削って寄せ集めれば、三十分でも一時間でも時間は作れるだろう。だが、そうまでして逢う時間に何の意味があるのだろう。もっと時間のあるときに逢えばいいではないか。


 そう思う気持ちを口には出さなかった。いや、口にした事はあるのだ。過去に一度。そうしたら、「俺のことは好きじゃなくなったんじゃないか」とか「誰か他に好きな奴ができたんじゃないか。それはどこのどいつだ」とありえない理由を続けざまにぶつけられ閉口したことがあった。あの不毛な言い争いを避けたい気持ちが、紗江の心に蓋をしていた。


「この間もそう言って」

「ごめん!先輩が呼んでる!また後で」


 下手な小芝居を打って、紗江は強引に電話を切った。


 きっと次に逢うときに、グチグチネチネチと今日のことを言われるのだろう。そのことを考えるとふいに叫びたい衝動に駆られたが、心にさらに思い蓋をして、オフィスの一室へと踵を返した。






 紗江の脳裏に浮かぶ、在りし日の自分。

 あの時、今の自分ならどうするだろうか、と、ふと思った。そして、やっぱり同じ態度を取ってしまうだろうと思う。


 なぜ…。

 それならば、相手が正樹だったとしたら…。


 寝る時間を惜しんでも、逢う、と思う。いや、違う。事実、逢っていたではないか。


 どうして…。


 明確な答えがすぐそこにあるにもかかわらず、紗江は同じ問いを呪文のように繰り返した。

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