33.
「紗江といるときは必ず雨だね」
正樹は視線を前方に向けたまま話しかけた。
「そう、ですね。ぶつかった時もそうだったし…」
紗江は正樹と出会うきっかけとなったあの雨を思い出した。
「実はね、その前からなんだよ」
「前から?」
「そう。紗江が相席してくれた時もそうだったろ」
「あっ、そういえば」
そう言われてみると、あの時は雨が降っていたことを思い出した。
「それからカノンで逢う時も雨が多かった気がするなぁ。それとも、雨が降るとカノンに行きたくなってたのかな」
正樹がハハハと笑い、それにつられて紗江も笑った。
「ねぇ、紗江」
「はい?」
呼ばれて、紗江は正樹のほうに顔を向けた。
「もう少し一緒にいてもいい?」
その台詞がどういうことを差しているのか、紗江は瞬時に理解した。なぜなら、それは紗江自身も望んでいたことだったから。
正樹が視線を紗江に移し、紗江は正樹に頷いて見せた。正樹はほっとした表情で、また視線を雨の降る暗い道の先へと戻した。車はヘッドライトだけを頼りに雨の中を走っていた。
突然車が減速し、煌びやかな光を放つ建物の中へと滑り込んだ。区切られたスペースにそれぞれ車が入れられており、その空いている一画へと正樹は車を停めた。サイドブレーキは引いたものの、エンジンはかかったままだった。
「ごめん。こんなところで」
なぜか正樹は謝りだした。
「嫌なら、すぐ出るから」
エンジンを掛けたままにしているのはその為だったのだ。
紗江は強く首を振り「かまわないんです」と言った。その様子にほっとした正樹は車のエンジンを切って車から降りた。そして、助手席側に回ってドアを開け、右手を紗江に差し出した。誘われるようにその手を取った紗江は、そのまま正樹の胸に抱かれて、今は二人のものとなった部屋へと導かれた。
正樹の手によって扉が開かれ、二人は部屋の中へと足を踏み入れた。
「どした?」
立ち止まって動かなくなった紗江にいぶかしんだ正樹が声を掛けた。声を掛けられて初めて、紗江は自分が立ち止まっていたことに気づいた。
「あ、ごめんなさい」
そう言って再度足を踏み出すも、またも紗江は立ち止まった。不審に思った正樹が紗江の顔を覗き込むと、その目はどこか落ち着かず、部屋のものを一つずつ確認するかのように動いていた。
それを不安の現われだと思った正樹は「出ようか?」と声を掛けた。その時やっと自分の行動が正樹に要らぬ心配をさせていることに気づいた。
「ちっ、違うんです!…その…」
この後をどう続けるべきか、紗江は迷った。
実は、俗に言うラブホテルに紗江が来たのは初めてだった。ただ、そのもの珍しさにキョロキョロとしていただけなのである。前の彼氏と行為に及ぶときは必ず相手の部屋で、外出先でということはありえなかった。というよりは、紗江のほうが拒んでいた感はあるが。
「その…なに?」
紗江の不安を拭い去ろうと正樹が優しく問いかける。急に恥ずかしくなった紗江は、赤くなって俯いてしまった。
その様子から何かを感じ取った正樹は、紗江の手を引いて「出よう」と言い出した。
「えっ、ちがっ、正樹!」
思わず大きな声を出した紗江に、正樹はにやりと笑い、紗江の顔を覗き込んだ。
「何が違うの?」
正樹はますます顔を寄せて、紗江に詰め寄った。紗江がますます赤くなるのもかまわずに。
「やっぱり嫌なんだろ?無理しなくていいよ。出よう」
さらに正樹が詰め寄ると、紗江は下を向いたまま、小さな声で呟いた。
「…なの…」
「えっ?何?」
正樹はどうあっても理由を聞く気らしい。紗江は恥ずかしさで顔を赤らめたまま、覗き込む正樹の目を見やった。
「初めて、なの。こういうところ」
つっかえながらそれだけを言い切った紗江を、正樹はきつく抱きしめた。
まさか抱きしめられると思ってなかった紗江はひどく驚いた。
「えっ、えっ!?」
「かっわいいなぁー、紗江は」
正樹は紗江の顎を取り、上に向かせてキスの雨を降らせた。
「んっ、…んっ…」
突然のキスに、紗江は息継ぎもできず、ただ正樹の唇に翻弄され、なすがままになっていた。
どれくらいの時間がたっていたのだろう。甘い拘束が解かれたとき、紗江は立つこともできず、正樹の胸へと寄りかかっていた。
「このまま紗江を押し倒したいのは山々なんだけど、先にシャワー浴びていい?昨日からこのままだからさ」
どこか遠くで正樹の言葉を聞いていた紗江は、頬を正樹の胸に押し当てたまま熱く潤んだ瞳で見上げた。そんな紗江を見て正樹はクスリと笑った。
「すぐ出てくるから。部屋の中でも探検してて」
そう言って紗江をベッドの端に座らせると、正樹はシャワーを浴びに浴室へと消えていった。しばらくすると、水の跳ねる音が連続して聞こえてきた。その音を聞いて、紗江は小さく息をつき、体の力を抜いた。
改めて辺りを見渡してみる。
もっとゴテゴテしてキラキラしたものを想像していたが、部屋は思ったよりも落ち着いた色合いで統一されていて、やたらと広いベッドのあるちょっと小洒落たビジネスホテルといった感じだった。
と、思ったが。
枕の上にある小さな入れ物の中に、小さな包みが2つ置いてあり、それが普通のビジネスホテルではないことを如実に物語っていた。
当然、後でそれを使うことになるのであろうが、その生々しさに紗江はそれから顔を背けた。そして、はたと気がついた。初めてのとき、どうしたのかと。
思い返してみても、紗江にはよくわからなかった。当然だろう。正樹の腕の中でありえないほど翻弄され続けていたのだから。覚えているのは、二人を包む熱い熱と、天に昇るようで地に落ちていくような浮遊感と、砂糖菓子のようにどこまでも甘い快楽だけだった。そのときを思い出して、紗江の奥に潜む女の部分が熱を持ち始めた。
シャワーの水音しか聞こえない空間に居心地が悪くなり、そんな自分を持て余し、紗江はテレビのスイッチを入れた。画面の向こうではくだらないバラエティー番組が放映されていたが、今のこの状態ではそれがちょうどよかった。
「何見てるの?」
「きゃっ!」
突然耳元で発せられた声に、紗江は飛び上がるほど驚いた。
「ごめん。そんなに驚くとは思ってなかった」
振り向くと、薄茶のバスローブに身を包んだ正樹が申し訳なさそうに頭を掻きながら立っていた。
「ごめんなさい、わたし…、ぼーっとしていて…」
シャワーの音が止んでいたことも、浴室の扉の音にも気づかぬほど、己の思考に入り込んでいた。いや、それは妄想というべきか。淫らで欲深い妄想。その相手があの時と同じように目の前に立っている。体の奥で燻る熱が激しく燃え上がる。思わず紗江は身じろいだ。
「紗江?」
突如黙り込んだ紗江にいぶかしんだ正樹は、彼女の横に腰掛けながら顔を覗き込んだ。淫らな妄想を悟られぬよう、紗江はほんの少し身を引いた。
しかし、そんな紗江を逃さぬように、正樹はさらに顔を近づけた。そして、すばやくその唇を奪った。
「探検はすんだ?」
紗江は小さく頷いた。
「シャワー、浴びる?」
正樹の提案に、紗江は大きく頷いた。
冷たいシャワーで体の熱を鎮めようかとも思ったが、手に触れた水があまりにも冷たかったので止めた。代わりに少し熱めの湯に当たり、体の熱から意識を遠ざけた。それが功を奏したようで、浴室から出た時には妄想も水に流れしまったようだった。
正樹が着ていたのと同じ薄茶色のバスローブに袖を通し、無駄に広いベッドへ向かった。
ベッドに一歩近づくにつれ、流したはずの妄想が蘇る。疼き始めた体を刺激しないように歩いてベッドに近づくと、枕を背もたれにして正樹は静かな寝息を立てていた。
「寝てる…」
ほっとしたような、がっかりしたような、不思議な気持ちで寝顔を見つめた。
考えてみれば無理もない。昨日だってろくに眠っていないのだ。それも車中という、疲れを取るには不向きな場所でうたた寝同然の睡眠をとったに過ぎない。あれから今まで、休みを取っていないに違いないのだ。いや、それ以前も、紗江と逢う時間を作るために無理をしたことは容易に想像できる。
よく見ると、正樹はベッドの上に乗っているだけで上掛けさえも被ってはいなかった。部屋の中は寒くないとはいえ、これでは風邪を引いてしまう。が、正樹が上掛けの上に乗っており、被せることは用意ではない。無理に動かそうとすると起こしてしまう可能性もある。考えた末に、上掛けの半分を折り、上掛けで正樹をサンドイッチのように挟むようにした。幸い、少し身じろいだだけで目を覚ますこともなかった。
紗江はやたらと騒ぎまくるテレビの電源を落として静かにベッドに上がり、正樹の横に座って彼の寝顔を見つめる。手を伸ばしかけて、そしてやめた。
正樹の寝顔を見つめながら、紗江は切なく疼く胸の痛みを感じていた。その痛みは、いまだ外で降り続いている雨の音と相まって強くなっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます