31.

 正樹から連絡があったのは、その日の夜だった。別れてからかなりの時間が過ぎていた。


「もしもし、紗江?」

「お疲れさまです。終わったんですか?」

「とりあえずね、目処は立ったよ。紗江、食事は済んだ?」

「いえ、まだです」


 そう言われてチェストの上の時計を見ると8時を過ぎていた。いつもならとっくに食事を済ませているはずの時間だった。予感があったわけではない。ただ何となく、そんな気になれなかった。


「よかった。今から出れる?」

「今から?」

「そう。実はもう待ってるって言ったら怒る?」

「えっ?」


 一瞬、何のことだか紗江には理解できなかった。


「今朝の場所に、今いるんだ」

「えっ?うそ…」

「無理、かな?」


 正樹と別れてから今まで、何を隠そう紗江の心の中は正樹で占められていた。部屋の掃除をしていても、読みかけの本を読んでいても、すぐに目の前が正樹の姿で埋め尽くされてしまう。こんなことは生まれて初めてだった。

 逢える嬉しさに頬が緩むのが自分でもわかった。素早く身支度を整える時間を頭の中ではじき出した。


「10分、ううん。15分、待ってもらえます?」


 携帯を片手に、紗江は着替えをクローゼットから引っ張り出していた。


「もちろん。待ってるよ」


 電話を切るや否や、紗江はこれ以上はない速さで化粧をし、着替えを済ませた。そして、正樹が待つ外へと急いで飛び出した。


「ごめんなさい!遅くなって」


 軽く息を切らしながら、紗江は正樹の車に乗り込んだ。


「気にしないで。こっちが無理言ったんだから」


 そう言って正樹は微笑んだ。


「さて、何食べたい?」


 聞きながら正樹はキーを回しエンジンを掛けた。


「あっ、何も考えてなかった…」


 電話を貰ってから車に乗り込むまで、紗江の頭の中は正樹に逢えるということだけで、食事のことなどこれっぽっちもなかったのだ。それを思わず口にした紗江だったが、その呟きを聞いて、正樹はハンドルに倒れこみ吹き出すように笑い出した。


「えっ、あの…」

「ごめん。紗江はほんと、可愛いなぁ」

「えっ?」

「よし!それじゃあ、あそこに行こう」


 何が可愛いのか当の紗江には分からぬまま、車は発進した。

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