30.
「あ、そこで。同じ場所で降ろしてもらえればいいです」
車に乗った場所が見えてから、紗江はやっと口を開いた。
正樹が車のエンジンをかけて発進してから今まで、なぜかどちらとも無言のままだった。正樹はただ前方を見つめ、紗江も同じく前を見つめていた。互いに握られた手の温もりを感じながら。
車は紗江が乗り込んだ場所で静かに止まった。サイドブレーキが引かれ車の制御が不要になると、正樹はハンドルに両腕を預け、無言のままその上に顔を乗せた。正面に見える太陽が、正樹の硬い横顔を照らしていた。
「送っていただいてありがとうございます。あの、お仕事頑張ってくださいね」
勤めて明るく話しかけた紗江だったが、話かけても正樹の横顔が動くことはなかった。居たたまれなくなった紗江は、荷物を手に車から降りた。その時、その手にまだいくらかおむすびが残ったままのバスケットが握られていたことに気づいた。
「あの、これ、置いていきますね。お腹がすいたときにでも食べてください。半分くらい『梅』ですけど」
梅干が苦手だと言っていたときの少しすねたような正樹の顔を思い出してほのかな笑みを浮かべながら、先ほどまで自分が座っていた場所にそのバスケットを置いた。
「紗江」
突然名前を呼ばれて、紗江はバスケットに手を掛けたまま、車の中に上体を入れた。
「なんっ…」
なんですか?と続けようとして、紗江の口は正樹の唇によって塞がれた。ついばむ様な軽いキスだったが、互いの熱を伝えるには十分だった。
「終わったら連絡する」
そう言って正樹が去ってしまった後も、紗江は炎の灯った唇に手を当てたまま、その場に立ち尽くしていた。
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