29.

 どれくらいのときがたったのだろうか。静かな時間が何かの音によって突然途切れた。

 その音は正樹の携帯の音だった。

 紗江が目を開けると、正樹は携帯に表示された電話の相手を確認し、一つ小さなため息をつくと、あきらめたように電話に出た。


「殿上です。山上(やまがみ)か、どうした?」


 相手は山上というらしい。相手が何を言っているのかはわからないが、電話の向こうのどこか緊迫した様子だけは紗江にも十分伝わってきた。


「うん、わかった。それで」


 電話の相手と喋りながら、正樹はチラッと紗江を見ると、ごめんというように片方の目を閉じ、ドアを開けて車外へと出て行った。

 そんな正樹の後姿を見送りながら、ふと腕の時計を確認すると、朝の7時を過ぎたところだった。そういえば、外が明るい。前方には昨夜は見えなかった水平線が臨め、その線上には太陽が丸い形を保ち辺りをその大いなる力でもって照らしていた。雨はいつの間にか上がっていた。


「ごめん、紗江。帰らなきゃならなくなった」


 電話を終えて車内に戻ってきた正樹は、慌てた様子で倒れていたリクライニングを戻した。


「ほんとにごめん。仕事でトラブルがあったみたいで」

「私のことは気にしないで下さい」


 なんとなくそうじゃないかと思っていた紗江は、少しでも正樹に気を使わせないよう、努めて明るい声でそう言った。


「お急ぎなんですよね。近くの駅まで送っていただければ、私、そこから自分で…」

「いや、それはダメだ。自分が送っていくから」


 紗江に全てを言わせる前に、即座に正樹がその意図を汲んで阻止した。


「少しでも紗江といたいんだ」


 正樹の真っ直ぐな瞳に見つめられて、紗江は小さく、だがしっかりと頷いた。

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