23.

 紗江は一人、駅前のファーストフードの外に面したカウンターに座っていた。両手にはすでに冷め切ったコーヒーが握られ、視線の先は目の前の大通りに向けられていた。店内は明るいが、外はすでに真っ暗だった。日のあるうちは帰りを急ぐ人が多く見受けられたが、こう暗くなるとその姿もまばらになっていた。


 目の前に置いてある携帯の時間を確認する。7時28分。

 店に掛けられている時計を確認する。7時29分。二つの時計にそう違いはなかった。


 紗江がこの場所に座ってすでに2時間がたとうとしていた。咲子の忠告を無視してこんな時間までここにいるわけはただ一つ。正樹を待つためだった。

 今朝食事をして別れるとき、正樹が「今夜も逢えないかな」と聞いてきたのだった。その言葉に紗江は一も二もなくOKの返事をした。そして今、紗江は正樹を待っていた。

 約束の時間は指定されていなかった。正樹の仕事がいつ終わるかわからなかったからだ。正樹は「7時、いや、遅くとも8時には…」と言っていたが、時間なんてどうでもよかった。何時であろうと紗江は待つつもりだった。


「いやだぁ、降るなんて言ってなかったのに」


 後ろの席の大学生風の恋人同士の女性が不意に声を出した。

 気がつくと窓には雨粒がいくつかついており、窓の外の空を見上げると、今まさに降りだした雨が幾粒も落ちてきていた。


 なんだかいつも雨だわ。


 紗江の思考が雨の中に吸い込まれかけたとき、コンコンという音に呼び止められた。はっとして顔を上げると、そこには窓の外でにっこりと微笑む正樹が立っていた。


「殿上さんっ!」


 思わず声に出して立ち上がる紗江を、周囲の客達が迷惑そうな顔で見上げた。その視線から逃れるように、紗江は急いで店の外へと走り出た。


「お仕事、終わったんですか?」

「今しがた、ね。それより、かなり待ったんじゃない?」

「いいえ、そんなこと」

「紗江は本当のこと言わないからなぁ」


 からかうように笑った正樹だったが、紗江はあの夜から自分の名前を敬称もなく呼ばれることにどぎまぎしていた。


「ま、そのお詫びって訳じゃないけど、今日は自分のおごりね」


 そう言って自分を指差した正樹だったが、紗江は強硬に反対の姿勢を見せた。


「そんなっ!いつも殿上さんに支払ってもらっていて、今日くらいは殿上さんじゃなくて私が…」

「待って」


 紗江の口が正樹の人差し指で閉ざされた。


「あのさ、苗字じゃなくて名前で呼んでくれないかな」


 正樹は昨夜からずっと紗江のことを名前で呼ぶようになっていた。それはごく自然で、当たり前のように。でも、紗江はそれに慣れていなかったし、自分が彼を名前で呼ぶなど考えてもいなかった。


「えっ、な、名前って?」

「うん、そう。名前。覚えてない?」


 覚えてないことはない。あれから何度も名刺を見たのだ。携帯にだって名前とともに登録してあり、電話やメールのたびに表示されるのだ。


「知って、ます」

「なんでもいいよ。呼び捨てでもチャン付けでも君付けでも。どうぞ、紗江の呼びやすいように」


 正樹は両手を広げておどけてみせた。

 が、紗江にそんな余裕はまるでない。目で見てはいたものの、口に出したことなど一度もないのだ。


「あ、『さん』付けはやめてね。それなら呼び捨てのほうがいいな」


 まさに『さん』付けで言おうとしていた紗江は口を開きかけたまま固まってしまった。そんな紗江を前に正樹は勝ち誇ったような顔で紗江に近づいた。


「今、『さん』付けで呼ぼうとしたでしょ。だめだよ。さ、呼んでみて」


 なぜだか逃げ場のなくなってしまった紗江は、意を決して口を開いた。


「ま…」

「ま?」

「ま、まさき」


 さん、と続けそうになるのを何とか押しとどめて、消え入りそうな声で紗江が正樹を呼んだ。


「はははっ。よし、それじゃ、食事に行こうか、紗江」


 食事代のことで揉めていたことなどすっかり忘れてしまったまま、紗江は正樹の腕に引かれて歩き出した。

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