21.
「紗江、起きて」
心地よいまどろみのカーテンを静かに開くように、優しい声が紗江の目を開かせた。
「ごめんね。もっとゆっくりさせてあげたいんだけど、そろそろ準備しなきゃいけないかと思って」
その言葉で紗江の意識ははっきりしてきた。そして、ありえない今の自分の状況に恥ずかしさで目眩がしそうだった。昨夜自ら誘ったことも、目覚めてすぐに再び愛を交わしたことも、名前を呼んで起こされたことも、そしてこれから昨日と同じ服で出勤しなければいけないということも。
そんな紗江を愛おしそうに見つめながら、正樹は紗江の額にキスをした。
「起きれる?」
「え、あ、はい」
そうは言ったものの、実際、紗江の体は昨夜と今朝に交わした正樹との愛のせいで力が入らなかった。しかし、何とか上体を起こして正樹に向かい合った。
「本当はまだ一緒にいたいんだけど、今日はどうしても仕事に行かなくちゃいけないんだ。ごめんね」
昨日だってあんなに遅くまで仕事をしていたくらいなのだ。急には休めるわけはないだろう。心の奥で淋しく感じながら、紗江は小さく頷いた。
正樹の言葉に甘えて、紗江は先にバスルームを借り、シャワーを浴び身支度を整えた。その間にフロントに連絡しておいたのだろう。クリーニングされたジャケットがハンガーに掛けられてクローゼットに吊られていた。その後に続いて、正樹もシャワーを浴びにバスルームへと入っていった。
椅子に座り、まだ夢心地の中で紗江は自分の行動にも心にも信じられないでいた。
紗江にだって恋愛の経験はある。好きになったことも、好きになられたことだって自慢じゃないけどあるのだ。もちろん男女関係に発展したことだってある。それは去年まで付き合っていた同期の青木だけだったが。
それでも、こんな風に冷静さを失って心のままに相手を欲したことなどなかった。紗江にとって恋愛は、一歩距離を保った、限りなく落ち着いたものだった。
それがどうしたことだろう。
昨夜は自分から求め、相手の腕の中で朝を迎える。こうやってただじっとしていても体のそこここに残る相手の温もりに癒され、そして、迫り来る別れを思い足先から冷えていく。どうしたいのかも、どうすればいいのかもわからなかった。
「どうしたの?」
いつの間にかバスルームから出てきていた正樹が側にいた。
「なんでもない」と口に出そうとしたが、喉が詰まったように声が出なかったので、代わりに首を左右に振って意思を表した。その様子を見ながら、ネクタイを結び終えた正樹がもう一つの椅子を紗江の前に移動させて座った。
「近くにパンのおいしい店があるんだ。朝早くから開いていてね、軽食もできる。一緒に行く?」
紗江はまだ時間を共有できる嬉しさを隠すこともなく、笑顔で頷いた。
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