19.

 サンドウィッチもデザートも食べ終わってしまい、後は紗江の手の中にあるカップの中のたった一口のコーヒーだけになっていた。


(どうしよう)


 さっきから紗江の頭の中はその言葉だけが渦巻いていた。

 こういうシチュエーションが初めてというわけでもない。紗江だって一人の立派な女性だ。今までだってそれなりの恋愛経験もある。にもかかわらず、このわけもわからない不安は未だかつて味わったことのないものだった。


「紗江さん」

「は、はいぃっ」


 極度の緊張で妙な返事を返してしまった紗江だったが、正樹は笑いもせず、不思議な表情をしていた。そして「ごめん」と謝ったのだった。謝られた理由もわからずうろたえる紗江に、正樹は言葉を続けた。


「紗江さんの優しさに付け込んでこういう状況に追い込んだんだ。こういう気分のときに一人でいたくなかったし、ましてや食事なんてする気も起きなかった、っていうのは言い訳なんだけど。今から別の部屋をお願いするから。本当にごめんね」


 言い終えた正樹は静かに席を立ち、ベッド脇の電話に手を伸ばした。


 こういう気分というのがなんなのかなんて、当然、紗江にはわからない。ただわかるのは、一人ではいたくなかったということ。食事も喉を通らない状態だったということ。優しさに付け込んだと言うけれど、ちっともそんな風に思えないということ。そして、そのすべてが嫌ではなかったということだった。


 フロントへダイヤルしようとした正樹の指が止まった。それは、紗江が正樹のもう片方の手から受話器を奪い取り、元に戻したからだった。


「紗江…」

「嫌じゃないんです。だから、このままでいいんです」


 奪い取った受話器を両手で電話に押し付けたまま言う紗江を、正樹は驚いた顔で見つめた。そんな正樹の視線を感じつつも、紗江は自分が止められなかった。


「私、このままどうなっても」

「しっ、黙って」


 言葉を遮るように、正樹が紗江の耳元に囁いた。そのテノールの甘い囁きは紗江の思考を止めるのに十分だった。


「もう、引き返せないよ?」


 言葉を発せようにも、紗江の唇は正樹によって熱く塞がれてしまった。

 さらにひどくなる雨の音と自分の心臓の音だけが、やけに大きく耳に響いていた。

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