18.
「おまたせ、さっぱりしたよ」
紗江よりもはるかに濡れていた正樹は、着ていたスーツを脱ぎ備え付けのバスローブを着ていた。その姿を見た途端、再び紗江の心臓が跳ね上がった。ざっと拭いただけの前髪が額に掛かり、いつもの感じと違って見えた。
「あの、コーヒーだけ先に頂いてます。お入れしましょうか」
「ぜひお願いするよ」
紗江がカップにコーヒーを注いでいる間に、正樹はテーブルを回りこみ紗江の前に座った。その前に「どうぞ」と言ってコーヒーの入ったカップを置いた。
二人が同時にカップに口をつけたとき、扉をノックする音が聞こえた。
「クリーニングかな。お願いしてたから」
正樹が席を立ち扉に向かった。何か話し声が聞こえ、しばらくして正樹が戻ってきた。
「やっぱりクリーニングだったよ。紗江さんの洋服も出しておくけど」
その好意に甘え、紗江は脱いでたたんでおいたジャケットを正樹に手渡した。
「これだけお願いします」
「ほんとにいいの?」
「ええ、後はそれほど濡れてなかったので」
「そう。じゃあ、これだけお願いしてくるよ」
正樹がホテルのスタッフにクリーニングを依頼している声が聞こえた後、パタンと扉が閉じられた。再び、部屋の中は二人だけになった。
「紗江さんもどうぞ」
紗江に勧めながら、正樹はすでにテーブルの上のサンドウィッチに手を伸ばしていた。
「ありがとうございます。でも」
「もしかして、食事、済んでた?」
「はい、あの、少しだけなんですけど」
残業になるのが早い時間にわかっていたので、5時頃SOYJOYを買っておいて、食べながら仕事をしていた。とはいえ、十分に空腹が満たされるものでもなかったのだけれど。
「よければ一緒に食べて欲しいな。とても自分一人で食べれる量じゃないし」
確かにテーブルの上にある皿には、卵とハムとレタスを挟んだ二人に十分な量のサンドウィッチと、桃に葡萄といった果物にヨーグルトソースがかかったデザートが二つのっていた。二人分用意されているのは見た目にも明らかだった。
「それじゃ、いただきます」
両手を合わせてから、紗江も目の前のサンドウィッチに手を伸ばした。
「最近、遅いの?」
「いえ、今日はどうしても帰れなくて」
残業することがないわけじゃない。それでも、遅くとも20時までには帰るようにしていた。ただ、今日に限って、あと少し、あと少しと思ううちにこんな時間になってしまったのだった。
「殿上さんはいつもお忙しそうですね」
最近返ってくるメールの時間などを思い出しつつ、紗江は言った。
「うーん、そんなつもりはないんだけどね。なんだかんだ言ってるうちにいつもこんな時間になっちゃうんだ。それでも、今日はまだましかな」
そういって正樹は笑っていたが、紗江には考えられなかった。正樹と出逢った時間は終電間近。脇に置いてある時計を見ると、すでに日をまたいでいる。『まし』なんていう時間ではなかった。
「そんな、もうこんな時間なのに」
「ははは、気にしないで。こういう仕事なんだ。それでも、今日は紗江さんに逢えたからね。嬉しかった」
さらりと言ってのける正樹に対して、紗江は真っ赤になって下を向いた。
「遅くなるとき、食事はどうしてるの?」
赤くなったままの紗江を気に留めていないのか、正樹はそのまま話し続けた。
「それほど遅くならないので、いつもはカロリーメイトやSOYJOYなんか食べてます。あとは飴とか」
「それで足りるの?」
「えぇ、遅くなっても8時ぐらいなので」
「そっかぁ、そうだよね。普通はそうだよ。どうも自分を基準に考えるからおかしくなるんだよね」
「え?殿上さんは食べないんですか?」
「ん?」
紗江の問いに対して、サンドウィッチを口に持っていこうとしていた正樹はその手を止めた。
「食べるときもあるし食べないときもある、っていうのが答え、かな」
「え!?食べないんですか?」
「うーん、食べないっていうか、タイミングを逃しちゃうんだよね。今日なんかその典型。で、今みたいなことになってるんだ」
笑って言いながら、正樹は手にしていたサンドウィッチを口に運んだ。
「あの、じゃあ、これ、全部食べてください」
紗江は目の前の皿を正樹の前に押し出した。
「えぇっ?」
「だって、こんな時間まで食べてないなんて、絶対、お腹が空きます。よかったら、私まだSOYJOY持ってますから、それも食べますか?あ、イチゴ味なんですけど」
足元に置いてあったバッグを探り、イチゴ味のSOYJOYを取り出した紗江を見て、正樹が大きな声で笑い出した。
「大丈夫だよ。慣れてるし、これで十分足りるから」
「でも、もう12時過ぎてるんですよ。私なら絶対無理です!」
強く言い張る紗江に、さらに正樹は笑った。
「なんだかもう、まいったなぁ」
そう言うと、正樹はSOYJOYを持った紗江の手を取り、その指先に軽く口付けた。
「えっ!?なっ!」
「うん、じゃあ、これは今度遅くなったときのためにありがたく頂いておくよ」
正樹は力の緩んだ紗江の指からSOYJOYを奪い、目を大きく見開いたままで微動だにしない紗江に微笑んだ。
「それと、こんな時間だから紗江さんもお腹が減っているだろうし、これとこれは食べてくれるかな」
正樹は目の前のサンドウィッチを皿の両端に二つに分け、デザートの入った容器とともに紗江の近くに置いた。言われるままに「いただきます」と言って手を伸ばした紗江を見て、正樹も皿に手を伸ばした。
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