16.

「やだ、もう終電しかないじゃない!」


 紗江は静かなオフィスの中で独りごちた。壁に掛かる時計の針を見ると、最終電車しか残っていない時間になっていた。

 朝から今日の残業は覚悟していたけれど、まさかこんな時間までかかってしまうとはこれっぽちも思っていなかった。


 とりあえず、明日の業務に支障がないようにさっと片付けをし、最後になったフロアの電気を消して職員用の通用口から真っ暗な街へと足を踏み出した。

 腕の時計を気にしながら小走りに走る紗江の頬に、ぽつりと小さな水滴が当たって砕けた。


「えっ?雨?」


 そう思ったのも束の間、突然真っ暗な空から大粒の雨が容赦なく降り注いできた。


「うそっ!?ちょっと待って!」


 急な雨に、それまで歩いていた人たちはそれぞれが向かう場所へと走り出した。

 紗江も同じように駅へと走り出したが、ちょっと走ってつくような距離でもなく、あきらめて近くにあったシャッターの下りた店の軒先へと走りこんだ。


「降るなんて言ってなかったのに…」


 朝のお天気キャスターに文句を言いながら、雨の中を駆けていく人の群れと降り続く雨をなすすべもなく見ていた。

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。家に帰り着くための電車はもう最後の1本しかないのだ。


 意を決した紗江が、足を踏み出そうと決意したときだった。


「くそっ!」


 悪態をつきながら紗江のいる軒下へ男性が走りこんできた。突然の雨で濡れてしまった全身から、ぽたぽたと雫が伝っていた。

 その声に、姿に、覚えがあった。


「殿上さん?」


 恐る恐る声を掛けた紗江のほうに、その男性は振り向いた。


「えっ?紗江さん?どうして?」


 声を掛けられた正樹は、目の前に紗江がいることが信じられないようだった。


「残業だったんです。帰るところなんですけど、雨が降ってきてしまって」


 紗江が空を見上げると、同意するように正樹も空を見上げた。


「今朝の天気予報では雨が降るなんて言ってなかったんだけどね。油断したよ」

「そうなんです!わかってたら傘を持ってきたのに」


 お天気キャスターに対する不満が正樹の口から出たことで、先ほどまで同じ思いでいた紗江は、思わず声を出してしまっていた。


 びっくりして目を丸くする正樹と。

 小さく「あっ」とつぶやいて口を手で覆う紗江と。

 二人は顔を見合わせた。そして、その一瞬の沈黙を破ったのは、正樹の笑い声だった。


「だけど、こうして偶然にも逢えた」


 そう言う正樹の瞳は、なぜか真っ直ぐ紗江を捕らえて離してくれなかった。


「あ、あの、私、そろそろ帰らないと。終電が」


 紗江が腕の時計を覗き込もうとしたとき、時計が正樹の手でふさがれた。まるで、時間を見えなくするように。


「あの、殿上さん?」


 紗江が手を引こうとしても、掴まれた腕が離れることもなく、それどころかさらに強い力で引き寄せられた。その拍子で紗江の体はぐらりと揺れ、正樹の腕の中へと吸い込まれるように抱かれてしまった。


 頬が、肩が、胸が、正樹に触れていた。


 そのことに気づいた瞬間、紗江の体温が急激に上昇した。

 恥ずかしさに紗江が身をよじって逃れようとすると、それを許さぬように正樹は紗江をきつく抱きしめた。


「あ、あのっ」

「ダメかな?」


 何が?


 紗江が答えるよりも早く、正樹の唇が紗江に触れた。

 それは、前回のような優しく何かを確認するようなキスではなく、熱を帯びた荒々しいキスだった。唇の輪郭を舌で辿るようになぞられるうちに、紗江の体に小さな炎が灯った。


「このまま一緒にいても」


 その声はさらにひどくなる雨音よりも強く響いた。

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