15.

「雨、あがったのかな?」


 正樹はのれんを押し上げて真っ暗な空を見上げ、薄暗い街頭の照らす道へと足を踏み出した。

 紗江はバッグと傘を手に、店の前に立ち尽くしたままだった。


 食事代は?女将さんは頂いたって。それって、まさか。


「殿上さん!」


 数歩先にいた正樹を紗江は呼び止めた。

「どうかした?」と言いながら正樹は戻りかけていたが、それよりも先に、紗江のほうが正樹の元にたどり着いた。


「あの、さっきのお店の食事代…」

「うん、払ったよ」


 紗江が勢い込んで聞いたにもかかわらず、正樹はあっさりと認めた。


「どうして…。今日は私が…」

「そうだったんだけどね。女将さんが伝票持ってきたもんだから」


 そうであっても、今日は紗江が支払うはずだった。

 これが、最後かもしれないけど。


「でも、今日は私がお支払いします」

「ん?気にしないでいいよ。かなり安いし」

「それでも、やっぱり今日は私が払います。お幾らですか?」

「本当にいいんだよ。気にしないで」

「いいえ、だめです!お幾らなんですか?」

「いいんだって」

「いいえ!これ以上、殿上さんに奢っていただくわけにはいきません!」


 紗江は必死だった。これで最後だと思っていたから。もう逢わないほうがいいと思ったから。…これ以上、好きになって、しまう前に。

 だから、正樹の視線にしばらく気がつかなかった。


「そんなに、嫌?」


 さっきまでとはうって変わって真剣な声と眼差しの正樹に、紗江は思わず黙ってしまった。


「そんなに、嫌かな?」


 嫌?何が?


 正樹が近づいてきて、左手で紗江のあごを軽く上に向けた。そして、思考の止まった紗江に、真剣な正樹の顔が近づいてきて。


 紗江は正樹に、キス、されていた。


 雨が降って肌寒い空気とは裏腹に、合わされた唇は思いのほか熱く、紗江の体は背中を這い上がる熱に震えた。


 な、に…?


 正樹の唇が離れていくまで、紗江は不恰好なほど目を見開いたままだった。

 そんな紗江を見て、正樹はにやりと笑った。


「これじゃ、俺のほうが貰いすぎ、かな」


 その言葉に、紗江の思考がやっと動き始めた。


 私、殿上さんに、キス、されてた!?


 その事実にやっと気づいた紗江は、先ほどまで正樹が触れていた唇を両手で覆った。

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