7.

 店内には時間を束縛する時計というものは存在しなかった。時間にとらわれることなくゆっくり食事を楽しんでもらいたい。そういう心遣いなのだろう。

 だからこそ、こんなにも時間にとらわれることなく今を楽しんでしまった。近づいてくる終わりに気をとられることもなく。


 食後のコーヒーとともに何気ない会話に花を咲かせていて、紗江は時間がどんどんと過ぎていっているのに気がつかなかった。彼に「そろそろ出ようか」と促され、改めて腕の時計を見て驚いてしまった。


 もう、そんな時間だったんだわ…。

 そんな風に思ってしまった自分にも驚いてしまった。


 彼に続いて席を立つ。

 預けていた手荷物を受け取り、店員に「ぜひまたお越し下さい」と見送られて店外に出た。


 これで終わり。


 ご馳走様でした、ありがとうございます。

 そう言ってしまえば、彼との時間の共有はもう二度とない。


 そこで紗江はふと気がついた。食事代のことを。

 食事にでもと誘われはしたが、最初から折半のつもりだった。元はといえば自分のせいで彼に迷惑をかけたのだ。

 それにしても、彼はいつ、支払いを済ませたのだろう。

 席を立って店を出るまで、精算している様子はまるでなかった。手荷物を受け取っただけだ。いくら精算しているのか確認してから、後で自分の食事代を渡そうと思っていたから、これではいくら渡せばいいのか皆目見当がつかない。


「あの、殿上さん」

「ん?何?」

「先ほどの食事代ですが、お幾らだったんでしょうか。私、自分の食事代をお渡ししたいのですが、幾らお渡しすればいいのかわからなくて」


 バックから出した財布の中身を確認しながら、尋ねる。

 店に来る前に銀行によってきたから、多分、大丈夫だろう。


「気にしないで、紗江さん。連絡が遅くなったお詫びなんだから」


 顔を上げると、当たり前のように名前を呼びながら優しく紗江を見つめる彼の瞳があった。


 確かに、電話でもそう言っていたけど、だからといって、はいそうですか、という訳にはいかない。元々は自分のせいで迷惑をかけたのだから。


「でも、私が殿上さんに御迷惑をおかけしたのが原因ですし。それに、連絡が遅くなったのはお仕事がお忙しいからで、私は殿上さんの都合いいときで問題なかったので、そんなことは気にされなくてもかまわないんです」


 引くつもりはなかった。

 これで最後なら、綺麗なほうがいい。

 貸しも借りも、ない状態にしてしまいたかった。


「う~ん、困ったな。自分も紗江さんに出してもらうつもりはないんだよね。」


 そういって彼は、左手で前髪をかき上げながら考え込んだ。


 店に戻っていくらだったのか聞いて…なんて、そんなお店にも彼にも失礼なことできるわけがない。

 彼に2万ほど手渡して帰ろうか。でも、あの料理がそのくらいの値段で済むのだろうか。判断がつかないが、とにかく紗江が財布の札入れから2万円を抜きとうろとしたときだった。


「それじゃあ、次回は紗江さんの奢りということで」


 次回?

 彼の言葉に紗江は手を止め彼の顔を見た。


「もちろん、迷惑じゃなければなんだけどね」

「どうかな?」と訊いてきた彼の顔は、声の感じと違ってなぜか慎重に見えた。


 断るべき。

 次、なんてないほうがいいに決まっている。でも。


「次って…」

 どういうことですか?


 聞こうとしたわけじゃない。なぜか声に出てしまっただけで。


「次もまた、自分から連絡入れさせてもらってもいいかな。仕事も一段落ついたから、今度は早く連絡できると思うんだ」


 断るべき…。

 次も逢ってしまったら、私。


「それでいいかな」


 優しく微笑む彼の顔を見ていたら、「はい」と言って紗江は頷いていた。

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