6.

 紗江がカノンについたのは約束の時間の5分前だった。早すぎず遅すぎずな頃合に着こうと、普通に歩けばもう少し早く着くはずだったのを、少し遠回りをしてゆっくりと歩いてきたのだった。


 店の外から窓の中を覗いても、あの人の姿は見えない。中に入って待つべきかとも思ったが、外で待つことにした。


パタ、パタタ


 頭上の音に気づいて目の前の足元を見やると、空から落ちてくる雨粒がアスファルトを黒く塗り替えていくところだった。今の場所でも濡れることはなかったが、もう少しだけ軒先の奥のほうに引っ込んだ。時計を見ると7時を少し過ぎていた。


「ごめん、待たせちゃって」


 飛び込んできた足音と声に気づいて時計から顔を上げると、ほんの少し髪が乱れた背の高い男性が目の前に立っていた。ちょっと大き目のキャリーバックを持っていて、スーツには雨の粒が光っていた。彼、だった。


「殿上さん。大丈夫ですか。傘、は…」


 そう言って気がついた。

 傘は、私が持っているじゃない。


「近くまで来たところで降られただけだから差さなかったんだ。けど、この中にはちゃんとあるんだよ」


 軽く目配せをしながらキャリーバックを見る。


 本当、だろうか。

 真相はわからない。だけど、気をつかってくれているのはとてもよくわかった。


「それよりも、自分が遅れたから、随分待ったんじゃないのかな」

「いえ、私も少し前に来たとこですから」


 待ったといっても、実質的には10分も待ってはいない。待ち合わせの時間に遅れたといってもほんの数分のことだったし、それに、あの少し膨らんだキャリーバックを見れば仕事の忙しさが垣間見えるようで何も言えるわけがなかった。


「あの、それで、お借りしていた傘とハンカチです。どうもありがとうございました」


 本来の目的を忘れちゃいけない。私はこれを返しに来たんだから。


 傘とハンカチの入った小さな紙袋を手渡す。

 傘はすんなり受け取ってくれたが、紙袋のほうは少しいぶかしげな顔をして受け取った。そして、彼はチラッと紙袋の中身を覗いた。


「これは?もう一つ包みがあるけど」

「お借りしたハンカチは一応洗ったんですけど、少し汚れてしまったので。もう一つはハンカチなんです。あの時色々してくださってとても助かったので、そのお礼の気持ちです」


 それだけ。

 私が悪いのに、雨に濡れながら荷物を拾い集めてくれて、濡れネズミの私を送り届けてくれて、私を助けてくれて、だから、その、お礼。

 紗江は心で反芻した。


「ありがとう。喜んで使わせてもらうよ」


 紙袋を目の高さまで差し上げながら白い歯を見せて微笑まれて、その笑顔に紗江は思わず下を向いてしまった。


「それじゃあ、中に入ろうか。実は朝からあまり食べれなくて、おなかがペコペコなんだよ」


 彼はそう言って先にドアを開けて入っていく。

 のかと思ったら、彼はドアを開けて待っていた。


「え、あの…」

「さ、入って」

「あ、ありがとう、ございます」


 紗江が入ったのを見計らって、彼は静かにドアを閉めた。

 店内に入るとすぐにどこからか店員がやってきた。二人を見てにっこりと微笑む。


「いらっしゃいませ」


 その店員だけでなく、カノンの従業員は皆笑顔がとても自然で、いつ来てもなんだかほっとした。


「予約をしていた殿上ですが」

「お待ちしておりました。よろしければ、お荷物、お預かりいたしましょうか」

「お願いします」


 予約、していたんだ。


 紗江はわけもなく落ち着かなくなった。

 荷物をクロークで預かってもらう間、店内を覗き見る。こんな時間に来たのは初めてだが、昼に来るときとは感じが違う。全体的に照明を落としているからだろうか。それとも、昼は誰しも時間が限られているので慌ただしい感じがあるが、夜はそうでもないからだろうか。


「それでは、お席へご案内いたします」


 二人が案内されたのは窓際の席だった。端に刺繍がされた真っ白のテーブルクロスがかけられたテーブルの上には、1輪のバラの花が飾られていた。白い花びらに濃いピンクの縁取りがあって、とても可愛らしい。


「『メヌエット』という名前のバラなんですよ」


 紗江の視線に気づいたのか、案内してくれた店員が教えてくれた。


「そうなんですか。とても、きれいですね」

「ありがとうございます」


 ふと周りを見ると、テーブルごとに違う花が飾られている。


「席ごとに違うんですね」

「はい。なるべくご予約いただいたお客様のイメージに合った花をこちらで選ばせていただいて、お席に飾るようにしております。お気に召しましたでしょうか」


 イメージ…。私の?予約したのは殿上さんだから、彼がお店に私のイメージを伝えたのだろうか。

 隣に並ぶ彼をそっと見上げると、紗江を見て優しく微笑んでいた。


「あの、とても、もったいないくらい。ありがとうございます」

「喜んでいただけて何よりでございます」


 そう言って、店員は紗江のために椅子を引いてくれた。促されるまま席に腰を下ろすと、絶妙のタイミングで椅子を引き入れてくれた。そして、紗江が座ったのを見計らって彼も椅子に腰を下ろした。


「殿上様、お飲み物はいかがいたしましょうか」

「そうですね…」


 彼の視線が紗江を捉える。

 紗江はわけもなくどきどきした。


「紗江さんはアルコールは大丈夫ですか」


…紗江、さん?

 今、名前で呼んだの?私を?

 驚く紗江に気づいている様子もなく、彼はじっと紗江を見つめていた。


「ワインか何かをと思ってるんだけど。もしアルコールがダメなら何か別のものを頼むけど。どうかな」


 彼は何も変わらない。いたって普通だ。名前で呼ばれたのは気のせい?

 紗江は飛び跳ねた胸の動機に気づかなかった振りをした。


「少しなら、大丈夫、です」


 正直、紗江はお酒はどれもあまり好きじゃなかった。付き合いで飲むことはあるが、自分からは進んで飲むことはない。みんなが言うように、ちっともおいしく感じないのだ。大人になればおいしく感じるようになるという人もいるが、社会人になってもおいしく感じたことなど一度もなかった。

 でも、今この場所でアルコールを断るのは、ちょっと違う気がした。


「それじゃ、シャンパンをお願いできますか」

「かしこまりました」


 店員がうやうやしく頭を下げ去っていった。席には二人だけになった。


 紗江はそっと辺りを見渡した。

 店内にテーブルはそれほど多くはない。10ほどあるテーブルは、互いの空気を邪魔しないような、ちょうどよい間隔で並べられている。全てのテーブルが埋まっていて、誰もが穏やかに談笑している。それらの笑顔が、テーブルの中央に置かれた蝋燭の柔らかな炎に照らされていた。


 紗江のいるテーブルの蝋燭も、ちらちらと揺れながら燃えていた。そして、目の前の男性の笑顔を照らしていた。


「あの、あれからずっと出張だったんですか」

「うん。一度は帰ってきたんだけどね。でも、着替えを取りに帰っただけだから」

「そう、だったんですか」


 会話が続かない。というか、次の言葉が思いつかない。

 こういうとき、とてつもなく自分が恨めしくなる。何を言おうかと考え始めると頭がぐるぐるして、結局黙り込んでしまうのだ。慣れるまでが万事そんな調子で、昔からとっつきにくく思われてしまうことが多かった。

 それでも、社会に出て仕事をするようになってからはそういうこともなくなっていたと思っていた。いや、それとも、仕事の話をすることでごまかしていたのかもしれない。だとしたら、仕事で知り合ったわけでもない彼とは、当然ながら以前のように黙り込むしかない。


 きっと、つまらなく思ってる…。


 紗江は下を向いて、ひざの上に置いた手をぎゅっと握り締めた。


「あの時…」

「えっ?」


 話しかけられて紗江が顔を上げると、優しく自分を見つめる眼差しと出会った。


「あの時、ここで相席をしてもらったとき、自分はとても嬉しくってね。後でお礼を言おうと思っていたんだけど、タイミングが見つからなくて。この場を借りて言わせて貰うよ。本当に、あの時はありがとう」

「そんな、それくらい。お礼なんて」


 カノンのテーブルは二人掛けでもとても広い。忙しい時間帯なら普通ならどの店でも相席を頼まれるのだろうが、カノンはそんなことはしない。あくまでお客様ごとに1テーブルを用意するのだ。だから毎回、紗江が一人で行っても、一つのテーブルを占有することになる。そのせいで、わざわざ雨の中やってきてほんの少し紗江より遅かっただけで席に座れなくなってしまったその人に、紗江のほうから相席を提案したのだった。


「自分にとっては『それくらい』じゃなかったんだよ。だからね、こんな形になったけど、話をする機会が持てて、すごく感謝してるんだ」


 そう言われても紗江にとっては『それくらい』のことには違いない。お礼も感謝ももったいないものだった。それにしても、どうして『それくらい』のことでこんなに感謝されるのだろう。

 紗江はその疑問をぶつけた。


「あの、でも、なぜですか」

「ん?」

「相席なんて、めずらしいことでもないですし、そんなに感謝されることでもないと思うんですけど」

「ん~、実を言うとね」


 彼は紗江を見つめながら、少し照れたように話し出した。


「あの日は朝からトラブル続きでね。何をやってもうまくいかなくて。まぁ、後から考えると、そうたいしたことでもなかったんだけど。で、昼から気分を変えたくて、とにかくおいしいものでも食べようと思って、カノンに行ったんだ。そしたら、満席だって言われてね。待つほどの時間も取れないから、あきらめてそばでも食べに行くかなって思ったところに、助け舟がきたんだよ」


 そこまで言うと、彼は紗江を見て微笑んだ。


「そ、そんな、助け舟なんていうほどのことは」

「それだけじゃないんだよ」

「え?」


 私、他に何かしたのかしら?


 紗江はあの時のことを思い出してみたが、何も思い当たるものがない。あの時、互いに何かをしゃべったというわけでもない。それ以降も、顔を合わすことはあっても話もしたことがないのだ。何をしたというのだろう。


「食事が終わって会社に戻ってから、それまでのトラブルが嘘のように片付いてね。それ以降も、カノンで君に逢うと、何かしらいい事があるんだよ」


 優しく微笑んだまま、彼は紗江を見つめていた。


「え、あの…」


 ど、どうすればいいの?

 だって、私が何かをしたわけじゃないし、「いいえ、それほどでも」なんて言える関係でもないし。

 どうしよう。

 紗江が言葉に詰まっていると、カノンから『助け舟』がやって来た。


「シャンパンをお持ちしました」


 背の高いグラスが目の前に置かれ、そこにほんのり桜色の液体が注ぎ込まれた。小さな気泡がグラスの側面をのぼって弾ける。

 その、注がれた液体に彼が口をつけた。


「ありがとう。これでお願いします」

「かしこまりました」


 テイスティングというものだろう。彼の返事を聞いた後、店員が紗江の目の前に置かれたグラスにも同じ桜色の液体を注いだ。


「ごゆっくりどうぞ」


 店員が二人のほうを見てにっこり微笑んで去っていった。

 ランチのときはそういうことはなかったのだけれど、今、目の前で行われた動作が本格的で、紗江は必要以上に緊張していた。


 どうしよう。飲むの?


 目の前のグラスから助けを請うように彼のほうを見ると、彼はにっこりと紗江を見て「どうぞ」と言ってくれた。

 促されるままにグラスの足を持ち、静かに唇を近づけると、小さな気泡から運ばれた爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。香りに誘われるままに、桜色の液体を口に含むと、それは予想以上に爽やかで、紗江の緊張を解きほぐしていった。


「おいしい!」


 アルコールがこんなにおいしいだなんて!

 紗江は思わず声に出していた。


「気に入った?」

「ええ。なんていうのか、とってもフルーティーで。こんなにおいしいと感じたの、初めて」


 もちろんアルコールを口にしたことは何度もある。仕事の付き合いはもちろん、友人と飲みにいくことだってある。その先々で、ビールやカクテルやワイン、ときには日本酒だって飲んだりした。でも、一度だって、これほどおいしいと思ったことはなかった。


「そんなに気に入ってもらえるとは思わなかったな。食事も、自分が言うのもなんだけど、気に入ってもらえると思うよ」


 しばらくすると、本格的なフルコースの料理が目の前に次々と運ばれた。

 彼の言葉通り、その後の食事も紗江の期待を裏切るものは何一つなかった。

 最初こそ緊張していた紗江だったが、おいしい食事に適度なアルコールと彼の持つ柔らかな雰囲気のおかげで、いつしか笑みが零れるようになっていた。


「久しぶりだな、正樹」


 さっきまで給仕をしてくれていた店員とは明らかに違う人物が、手にデザートが乗っている皿を持って紗江たちの座るテーブルの脇に近づいてきた。


「吉川のおじさん!」


 その人物を目に留めるや否や、彼は即座に椅子から立ち上がろうとした。


「あぁ、いいから、座って」


 お店のシェフだろうか。

 白い服を着て、頭には白い背の高い帽子を被っていた。恰幅がよく、鼻の下には少し白いものが混じった髭があり、そのせいで大きな白い熊を思わせた。


「お前が来るのは予約表で知っていたからな。今、少し手が空いたから出て来たんだ。おっと、デザートを忘れるところだった」


 ははは、と笑いながら、その男性は目の前にデザートの乗った皿を置いた。


「紗江さん、こちらがこの店のシェフの吉川さん。吉川さん、こちらは磯村紗江さん」


 紹介された吉川というシェフは白い帽子を左手に取り、右手を紗江に差し出した。促されるままに手を差し出すと、大きな手がしっかりと紗江の手を握った。その手は料理と同じでとても温かかった。


「はじめまして。シェフの吉川といいます」

「はじめまして。磯浦紗江と申します」

「私の息子が彼と同級生でしてね」


 吉川シェフは彼のほうをチラッと見やった。


「吉川のおじさん、今日はもうそれぐらいで」

「なんだ。まだ過去の悪行はばらしてないのか!?」

「そんな風に言うと、ものすごいことをしていたように聞こえるじゃないか」


 彼は居心地の悪そうな顔で紗江を見た。

 その様子があまりにも可愛く見えて、思わず紗江は笑ってしまった。


「夜の御来店は初めてですよね?いかがでしたか?」


 確かに初めてだけど、どうして知っているの?


 紗江の疑問を察したように、吉川シェフは微笑んで言った。


「ははは、仕事柄、2度以上こられたお客様の顔は覚えているんですよ」


 そう言われても、紗江がカノンに来るのは月に1度で、それも1年も通っているわけではない。しかし、プロというのはそういうものなのかもしれない。


「あの、お昼もとてもおいしいんですけど、夜は、うまく言えないんですが、夢のようにおいしかったです」


 そう、本当に夢みたい。

 何もかもおいしくて、何もかも素敵で。

 そんな中に私がいられるなんて、夢としか思えなくて。

 紗江としては賛辞の言葉を述べたつもりであった。


「なんと!夢だと明日になると忘れているかもしれませんな」


 吉川シェフは眉間にしわを寄せ、腕まで組んで考え込んでしまった。


「あ、あの、そうではなくて、とってもおいしくて、あの・・・」


 紗江が慌てて言い直そうとすると、吉川シェフは突然笑い出した。


「いやぁ、冗談ですよ。ちゃんとわかっております。シェフにとって最高の賛辞ですよ。ありがとうございます」


 シェフはウインクをしながら紗江に頭を下げた。


「おじさん、やりすぎですよ」

「ははは。直接言われると嬉しいもんだな。たまには表に出てみるもんだな。おっと、デザートも食べてもらわなくてはいかん。それじゃ、私は奥に引っ込むが、正樹、たまには家にも顔を出してくれよ。紗江さんもこれに懲りずにまたいらしてください。それじゃ、二人ともごゆっくり」


 白い帽子を被り直し、最後にシェフの顔でお辞儀をしてから、吉川シェフは奥の厨房へと戻っていった。


「ごめんね、紗江さん。びっくりしたでしょ」

「いえ、そんなこと」


 確かにびっくりはしたけど、嫌ではなかった。むしろ、料理とシェフのイメージがつながって、紗江はさらに感動していた。


「小・中・高のときの同級生のおやじさんでね。何をするにもそいつとつるんでたから、息子同然に可愛がってもらってたんだ。予約したときにもしかしたらと思ったけど、やっぱりばれてたみたいだ」


 私とのことがなければ予約なんてする必要もなかったのだ。

 紗江は頭を下げた。


「す、すみません、私のせいで」

「ははは。気にしないで。そういう意味じゃないんだよ。本当は自分から挨拶すべきだったんだけどね。今日は紗江さんと食事を楽しみたかったから」


 私と。

 食事を?

 赤面しそうなセリフをこともなげに言っておいて、彼はデザートに手を伸ばした。


「ん!これはいける!紗江さんもどうぞ」


 きっと、他意はないのよ。

 気にすること、ないわ。


 少し早くなった心臓の鼓動に気づかない振りをして、紗江は目の前のデザートに手を伸ばした。

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