8.
「それで、昨日はどうだったの?」
いつものお昼休み。いつもの会議室。
同僚の咲子は可愛らしい花柄の巾着袋からお弁当箱を取り出しながら聞いてきた。
咲子が聞いてきているのは、昨日の夜の食事のこと。殿上さんとの。
「傘はちゃんと返せたわ」
傘は間違いなく返すことができた。
「それで?」
「食事もとてもおいしかったし」
あんなおいしい食事は初めてだった。
「それから?」
「今度、食事に行くことになった」
そう、また、逢う。殿上さんに。
「へぇ、よかったじゃない」
よかった?どうして?
不審な顔で咲子を見る。咲子は卵焼きを食べようと口を開けていたが、紗江の視線に気づき、箸でつかんでいた卵焼きを弁当箱に戻した。
「だって、気になってたんでしょ。その人のこと」
「どうして?」
咲子には雨の日のことくらいしか話してないのに。
咲子は先ほど食べようとしていた卵焼きを口にほおばり、「う~ん」と唸った。
「昨日の電話のときの反応がさ、今まで見たことない紗江だったから」
見たことのない、私?
咲子の言わんとしていることが紗江にはまるっきりわからなかった。
「なんていうのかなぁ。『女』を感じたっていうのかな」
「お、女を?」
咲子は何を言いたいんだろう。
紗江は驚きで瞳を丸くしながら咲子を見つめた。
「同期の青木と付き合ってたときでも、あんな紗江は見たことないよ。冷めてるってわけじゃないんだけど、冷静っていうか」
「確かに、熱くはなかったと思う、けど」
会社に入社して研修中に同期の青木から紗江が告白されて付き合っていたのが3年前のこと。仕事と恋愛は距離を置いておきたい紗江と、全てを目の届く範囲に並べておきたい青木とは少しずつ溝ができた。その溝に気づかない振りをして適度な距離を保っていたら、彼が浮気をした。
ううん。浮気じゃない。私じゃない人と本気になった。
正直、ほっとした。周りが気遣うほど、辛くもなかったし悲しくもなかった。別れを切り出すと、彼も明らかにほっとしていたから、お互い、終わりにしたかったんだと思う。
青木は今、別の営業所でその時の彼女と結婚後に出来た二人の子供のために毎日頑張っているらしいとは、つい最近咲子から聞いた話だった。
「まぁ、正直私もさ、紗江と青木は合わない気がしてたんだよね。あいつってムダに熱いじゃない?疲れないのかなって思ってたんだよね」
咲子はそう言って、ニッと笑って横目で紗江を見た。
「咲子のところと違って、明らかに温度差があったもんね。あの頃は心配かけたよね」
「そうそう。彬と二人で何度青木の相談にのったことか」
二人は顔を見合わせてぷっと笑った。
「後からそれ聞いてさらに冷めちゃったんだから」
「なによぉ。あん時は大変だったんだからね。青木ったらいつでもどこでもおかまいなしに私ら呼び出すんだからさぁ。彬はどう思ってたかしんないけど、私は『いいかげんにしろ!』って何度叫びたかったことか。そんなだから愛想つかされるのよってね」
随分たってから咲子に聞いた話によると、咲子たちは青木の恋愛相談にずっと乗っていたらしい。それも付き合う前の段階から、浮気をする前くらいまで。さすがに浮気をしてからは、相談しなくなったらしいが。
「別に、愛想尽かしたわけじゃないんだけどね」
そう、愛想を尽かすほど好きだったかというと、正直紗江には自信が、ない。
「あちゃぁ、愛想つかされるほど好かれてなかったのかぁ。青木の奴、可哀相に」
そう言って咲子は空になった弁当箱の蓋を閉めた。
「それより、傘の人とは今度いつ会うの?」
食後のおやつとして用意していたクッキーの箱を開けながら咲子が聞いてきた。
話はあれで終わったと思っていた紗江は、口の中に入っていたご飯をごくりと飲み込んだ。
「また、連絡くれるって言ってたけど」
確かにそう言っていた。と、思う。
あれから駅まで送ってもらって、二人はホームで別れた。その後紗江が振り向くと、全く逆の路線のホームに向かっていたから驚いた。それは、前回、彼がわざわざ遠回りをしてまで紗江を送ってくれたということを意味していたからだ。
「連絡待ち、かぁ」
「とても忙しそうだから、連絡がないままよ、きっと」
咲子はチョコチップのクッキーをほおばりながら、紗江にも一枚手渡した。それを受け取りながら、紗江は気のない風を装いながら答えた。
多分、そうなると思う。
私に食事代を出させないための社交辞令であんなこと言ったのよ。
だから、あれでもう、終わり。
受け取ったクッキーを口に運ぼうとしたそのときだった。
ブルブルブルブル。
くぐもった振動音がどこからか響いていた。
咲子が自分のバックから携帯を取り出して確認したが、振動音はまだ続いていた。
「私じゃないから、紗江じゃない」
私?
誰?まさか・・・。
振動はまだ続いている。ということは、メールではなく電話だ。
紗江は慌ててバックから携帯を取り出して表示されている着信元を見た。
090-15××-××××
名前ではなく携帯の番号だけがディスプレイに表示されている。その番号には見覚えがあった。
慌てて通話ボタンを押し、耳に押し当てた。
「はい、磯浦です」
まさか。まさか!
疑う紗江に電話口の相手は名前を告げた。
「殿上です。こんにちわ、紗江さん」
耳から心地よい振動のテノールが響き渡る。紗江の心臓が裏切るようにどくんと跳ねた。
こんなに早く連絡があるなんて、紗江は思ってもいなかった。というより、連絡がないだろうとさえ思っていたのだ。いや、思い込もうとしていた。
「こんにちわ。あの、昨日はご馳走様でした」
「気にしないで。こっちこそいつまでも連絡できずに、長く待たせてしまったし。それに、久しぶりのまともな食事に付き合ってもらったんだから」
「そんなこと…」
この人はとても優しい。いつも。
気遣いが嬉しくて、そして、どうしてか胸の奥がちくりと痛んだ。
「それで、昨日の約束なんだけど」
昨日の、約束?まさか、本当に?
期待してはいけないと思いつつも、期待せずにはいられなかった。
「今週末、良かったらどうかと思って。いい店があるんだ。魚料理がうまくてね。紗江さんは魚は大丈夫かな」
「ええ、大丈夫、です」
今週末?また、彼と?
紗江はつっかえつつも承諾の返事をしていた。
「そう、よかった。何時くらいなら都合がいいかな」
「定時には、5時には終わると思います」
「そっか。自分も定時には上がれるようにするよ。余裕をみて、6時に駅の東口で待ち合わせはどうかな」
6時、駅の東口。彼と、また、逢う。
紗江は刻み付けるように心の中で反芻した。
「わかりました」
「それじゃ、また、週末に」
「はい」
また、逢えるんだ、彼に。
ぼぉっとした頭で受話口を耳から離しかけたときだった。
「あ、そうだ。紗江さん」
ふいに名前を呼ばれて、紗江はまたビクッとしてしまった。
「は、はい」
「メールアドレス、教えてもらってもいいかな。連絡してもらっても、電話に出れないこともあるかもしれないから。いいかな?」
確かに電話よりはメールのほうが連絡を取るのに便利なときも多い。しかし。
「ええ、それはかまわないですけど、どうしましょう。口頭で、ですか」
紗江は躊躇った。自分のアドレスを覚えてないことはないのだが、紗江のメールアドレスは結構長めで、キーボードのあるパソコンならまだしも、携帯電話で入力するのは少し骨が折れる。
「そう、だね。迷惑じゃなければ、前回渡した名刺のアドレス宛に送ってくれると嬉しいかな。会社用だけど、後で自分の携帯に登録しなおして、再度、紗江さんに送り返すから。それでもいいかな」
紗江は以前貰ったあの名刺のアドレスを思い浮かべた。
しかし、自分の携帯電話にも登録してないし、名刺は家に置いたままだった。
「あの、名刺は今、手元にないんです。帰ってからでもかまいませんか」
「もちろん、OKだよ。手間かけさせてしまうけど」
「いえ、それくらい」
それくらいはなんてことない。ただ、メールを送るだけなのだから。
「じゃあ、お願いするよ」
「はい、わかりました」
「それじゃあ、週末に」
「はい」
通話が切れたのを確認してから、携帯電話をテーブルの上に置いた。
今週末の6時に駅の東口。
その前に、家に帰ったらメールを送る。
頭の中で反芻していた時だった。
「また逢うの?」
咲子がじっと顔を見ていた。
全然、気がつかなかった。というより、咲子の存在をすっかり忘れていた。
「う、うん。今週末に」
「そうなんだ」
まだ、咲子はじっと紗江の顔を見ていた。
「な、何?」
何となく居心地が悪い。それに、顔が熱い気がした。
「女の顔になってる」
「なっ!」
咲子はちょっと意地悪そうに言って、いつの間にか最後の一枚になっていたクッキーを口に放り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます