第5話
「いいか、くれぐれも落ち着けよ。俺達が暴れたところで、空が喜ぶわけじゃないんだからな」
逆縞はまた同じような言葉を口にした。ここに隠れてから、何度言われたかわからない。
打ち捨てられた廃工場。積み上げられたパレットの裏に身を潜めている。時刻はもう夜の七時だ。穴の開いた天井から差し込む月明かりだけが僕らを照らしていた。
何人かの怪我人を出しながら、ようやく掴んだキバ達の手口と犯行予定。最近は被害者を車に押し込んで、ここまで連れてきてからゆっくりと時間をかけて角をへし折ることにしているらしかった。
「やっぱり手を引くべきだったかな……」
逆縞がぼやく。こちらに怪我人が出た時点でキバと関わるのを止める選択肢もあったかもしれない。しかし仲間を傷つけられて黙っていられるほど上品な育ちをしてきた人間は一人もいなかった。そしてキバ達の活動を積極的に止めに行くべきだと真っ先に主張し、声を上げたのは誰あろう僕自身だった。
「でもまあ、お前に言われるとな。俺もやっぱり、本心では許せなかったんだなって思うよ。つい歯止め役に回りたくなるけどさ」
苦笑いしながら逆縞は言う。そのうちどこまでが僕に対しての気遣いなのかはわからなかった。
手に入れた情報によれば、もう少しでキバ達自身がここに来るはず。
ここに隠れているのは逆縞、赤鍵、青錐、僕の四人。多勢に無勢だったが、証拠を撮り、通報し、自分達の姿を見せてその場を混乱させればいいのだから人数は必要ない。捕まえるのはあくまでも警察の仕事だ、というのは逆縞がつけた絶対の条件だった。
「——来た」
ガラガラと大きな音を立ててシャッターが開くと、鋭い光が工場内を舐めた。黒いワンボックスカーが一台入ってくる。僕らからは二十メートルほど離れた場所で停車し、そのドアが開けられると、中から頭に黒い袋を被せられ、手を縛られた被害者が二名、引きずり出された。服装からして、会社帰りのように見える男女二名。後ろでは、怒りのあまり身動ぎする赤鍵を青錐が制している気配。
被害者二名が工場に転がっていた椅子に座らされ、そして黒い袋が取り除かれた。ここからではよく見えないが、おそらく綺麗に整った形状の角が顕になったに違いない。僕の心の中で、不意に黒い感情が滲み出す。それはきっと、キバと出会った頃の。
「お、お前達一体何なんだ! 何の恨みがあってぼくらにこんな——」
「恨みなら、数えきれねえよ」
地響きのような、聞き覚えのある声。
車からのっそりと出てきたのは、キバその人だった。もう暖かいというのに軍用と見られるモッズコートを着込み、髪もそれこそ軍人のように短く刈り込まれている。短く鋭い二本の角がその存在を誇示するように光っていた。そしてその手には、恐ろしいほどに目の荒い——鋸。
「ひっ……」
息を飲む二人を、ニヤニヤとした笑みを浮かべたキバの取り巻き達が取り囲む。
「おう、立派な角をしてやがるな……さぞかし人から認められて生きてきたんだろうなぁ……」
鋸を閃かせながらキバがいう。
横では、逆縞が真剣な表情でスマホの動画を回している。
僕の胸には黒いものが広がり続けている。
「短くて無様な角。二つもあるなんて気持ち悪い。鋭すぎて性格が悪そう。こんなセリフを吐かれながら過ごす子ども時代は想像ができるか? 大人になってからもそれが続く人生は? 大企業に就職して順風満帆な生活を送るお前らには、わかんねえよな」
語るキバの声がだんだん大きくなっていく。
「……もう十分だろ。潮時だ。青錐、警察は?」
「さっき呼んだ。もうすぐ来るはず」
逆縞と青錐の声が遠い。
僕が焚きつけた男が、僕が誘い込んだ女の子を傷つけた。
僕が得られなかったものを持つ男女が、僕が焚きつけた男に傷つけられようとしている。
僕は誰の味方で、誰の敵なのだろう。
——ガタッ。
動揺が手元を狂わせたのか。僕は目の前に積まれたパレットに、力をかけてしまった。
「誰だ!」
大きな声が、伽藍とした廃工場に響き渡る。
「やばっ……いや、まあ、結果的には予定通りか! 青錐、赤鍵、これ持って先行け!」
逆縞が赤鍵にスマホを投げ渡す。大事な証拠だ。赤鍵は力強く頷き、廃工場の裏口に向けて駆け出していく。
冷や汗まみれの顔に苦し紛れの笑顔を浮かべて、逆縞はゆっくりとパレットの影から出ていく。二人が逃げ切るまでの時間稼ぎ。こうなった原因の僕は、彼に遅れて姿を晒す。
「これはこれは。なっさけねえリーダー様と、口ばっかりのアジテーション野郎じゃねえか。奇遇だな」
「本当に奇遇だねえ、丸刈り暴力男さん。全く、俺の散歩コースで何荒っぽいことしてくれてるのさ? 映画の撮影か何かかな?」
表情を変えることなく、逆縞は嘯く。
一方の僕は、言葉も出ない。
キバは鋸を持ったまま、取り巻きを制して一人でこちらに近づいてくる。逆縞はこちらに目配せをした。タイミングを見計らって、僕らも逃げようというメッセージ。しかし僕の内部に渦巻く感情が、それを聞き入れるのを躊躇わせる。
「えらく静かじゃねえかアジ野郎。元はと言えばお前の言葉が俺を動かしたんだぜ?」
その言葉が、胸を抉る。
「お前、あのとき言ったよな…立ち上がれ、世の中を変えろ、って。力を込めて殴りつけないと眠った奴らは目を覚まさないんだと。俺は震えたんだ、図体ばかりデカい俺が、こんな細っこい男の言葉に動かされるなんて思いも寄らなくてな」
鋸を右へ左へ持ち替えながら語る。その間にも、僕らを包囲する円はじわじわと狭くなっていく。
「僕は——、」
口をついて、言葉が流れ出ようとする。
「正しい変化には……時間がかかる。僕らはまだ、自分達の正しい姿を伝えることができていない」
脳裏に浮かぶのは、空がくれた一枚の絵。
キバの表情が硬くなるのがわかる。
「……あ? それで、どれだけ時間をかければ俺達は馬鹿にされずに生きられるようになるんだ? あとどれだけ待てばいい? その間に虐げられてる奴のことはどうでもいいってか?」
畳み掛けるように、キバが言う。少しずつ言葉から余裕が失われているような気がする。
「それは……」
「これでも俺だって待ったんだぜ。だが世の中は何も変わらない。だから仲間を集めた。行動に移した。俺達の怒りを世間は知るべきだ。眠っている奴らを殴りつけて、人格者ぶっているその顔を恐怖で歪ませてやるのさ。角が捻れたやつを見たら恐れるようになればいい。あいつらが偏見を捨てられないなら、徹底的に分断するしか——」
「僕らは数では勝てない」
差し挟むように短く告げる。
「分断したところで、僕らの領土は確保できない。お前のやり方でできるのは、一時的に問題から目を背けることだけだ。数に勝る者達の敵意に晒されたら僕らに勝ち目はないんだ。お前のように恵まれた体格と頭脳を持つ人間にしか、戦い続けることは難しい」
一息にそこまで話して、僕は呼吸を整える。
キバは目を丸くしながら、鋸を握り締めている。その手は少し、震えていた。
「お、おい……」
遠慮がちに逆縞が声をかけてくるけれど、その声は薄い膜の向こうから聞こえてくるように不鮮明だった。僕の両眼はキバの両眼と固く組み合っている。瞬きすれば気合い負けしてしまいそうなほどに。
「だったら聞かせろよ、いい方法を」
「僕らの武器は、言葉しかない」
その一言が、どんな引き金になったというのか。
キバの全身が膨れ上がるかのように感じられたのは、きっと彼の抱えた怒りが許容量を超えたから。その鍛え上げられた腕が振り上げられる。あまりの勢いにめくれ上がったコートと衣服の隙間から、傷だらけの皮膚が見えた。
僕は横っ面を殴りつけられ、無様に数メートルも転がる。
「
逆縞が僕の本名を叫ぶ。
何とか身を起こして見上げると、キバの巨躯がヘッドライトの逆光によって影の中に染まっていた。僕には預かり知れない怒り。荒い呼吸に端々から、どうしようもないような悲しみと絶望が伝わってくるような気がした。
「危ない!」
振りかぶられたキバの鋸。咄嗟のことに僕は動けず——僕の代わりに動いた逆縞が、その刃と僕の間に躍り込む。顔を目掛けて振り下ろされた鋸は、当然ながら顔のうち最も出っ張った場所に吸い込まれることになり。
逆縞の角は、虚空へと切り飛ばされた。
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