第2話

 今日の勤務を終えたときには、時刻は夕方の四時半を回っていた。まだ春先だというのに外に出ると少し暑い。本屋からすぐの駅に向かい、中央線に乗る。少しも経たないうちに到着した新宿駅で降車し、複雑怪奇な構内を抜け、巨大な怪獣が顔を覗かせる映画館を横目にいくつかの通りを進んだり折れたりした先が、僕のもう一つの居場所であるバー“隠レ角かくれづの”だ。新宿の中心街から外れ、夜の色が濃くなる場所でひっそりと店名のネオンが発光している。

「判を押したように同じ時間なのね、貴方は」

 ドアを開けると、マスターの“二又ふたまた”さんは呆れ顔でいう。偽名。角が途中から二つに分かれ、それぞれがあらぬ方向へ伸びていることに由来する。

「変える理由、ないですから。ボンドマティーニお願いします」

「はいはい」

 と答えたもののカクテルを作るそぶりは見せず、代わりに目線で店の奥を指す。これは所謂符丁であるけれど、符丁を作っておいて良かったと感じたことは幸いにして一度もない。

 かつて極貧バックパッカーとして世界中を駆け巡り世界中で迷惑をかけまくってきたと豪語する二又さんが収集している謎の物品群(どこかの民族の神様の彫り物、極彩色な幾何学模様のタペストリー、等等)を掻い潜りながら店の奥に向かい、階段を降りていくとそこにあるのは地下室であり僕らのアジト。壁のそこかしこに貼られたビラ、数台並べられた安物のコピー機、段ボール箱の中で出番を待っている拡声器達、寸法を間違えた卒塔婆のように並び立つプラカードの群れ。つまるところ特定の思想を推進するために集まった人間達のたまり場。

「おーす、“折れ三角”」

 リーダーの“逆縞さかしま”の気の抜ける挨拶。そして彼は返事を待たずにカップラーメンを啜るのに戻る。彼の角は一際特徴的で、密度の高い縞模様を作るような捻れ方をしながら小さな棘がいくつも枝分かれしている。この角で刺されたら随分と痛そうだし複雑な形の傷口になりそうだが、そんな凶暴な角とは打って変わってのんびりとした口調で話す。

 仲間同士、角の特徴で呼び合うのも符丁の一つだ。子どもの頃にいじめられたときと同じ呼び名は最初こそ随分抵抗を感じたが、親しみが感じられる口調で呼ばれると悪い気はしなかった。欠点ごとすくい上げられているような気さえした。

 テーブルを挟んだ反対側のソファでは、“赤鍵あかかぎ”が熱心に何かをタブレット端末で読んでいる。近づいて覗いてみると外国語だった。それも英語ですらないが、彼にとっては問題にはならないらしい。角の色は千差万別ながら肌色に近いほど上等とされており、そして彼の角は毒々しい深紅で、その上途中で鍵状に折れ曲がっていた。偏差値最上位ランクな大学に合格しながら、この独特な角が災いして起きたいろいろな出来事により通うことができなくなった彼のアイデンティティは、まだその学力の内側に宿っているらしい。

「こんにちは、折れ三角。今日はフランスでデモがあったようだ。鎮圧部隊が出て、デモ隊と警察の双方に怪我人が出たそうだ。穏やかじゃないな」

 赤鍵はタブレット端末から顔を上げることなく一息にそう話した。

「切羽詰まった人間が取れる手段は多くない。そんなに切り捨てるものではないよ」

 ソファの向こう側にあるキッチンから、“青錐あおきり”の声が聞こえてきた。彼女もカップラーメンを作っているらしい。彼女の角は赤鍵と対照的に目の覚めるような青色で、真っ直ぐではあるが細すぎるきらいがあった。赤鍵の意見に対して一言物申すのが彼女の癖のようなものだけれど、赤鍵はどうもそれを歓迎しているらしい。曰く、目線が増えてありがたいとのこと。大人だ。

「他のみんなは?」

 手近な椅子に座りながら尋ねる。このアジトには日頃から十名強の人間が出入りしているが、今日ここにいるのは逆縞と赤鍵、青錐の三人だけのようだった。

「ポスター貼りにいってるよ。最近は厳しいからね、白昼堂々貼ると警察がうるさいんだ」

 ポスター。僕らの思いを伝える手段の一つ。

 ——角で人格を判断することのない世界。

 ——生まれついて背負ったもので悲しむ人のいない世界。

 ——どんな角でも幸せになることが許される世界。

 それが僕ら、隠レ角のメンバーが実現したいと切に願う世界の姿だ。その賛同者を増やすため、日夜ポスターを貼り、ビラを配り、SNSで声を上げ、街角で声を張り上げている。

 ……しかしそれにも、限界を感じ始めていた。思いの外、賛同者が増えてくれないのだ。

「なあ折れ三角。先週のSNS調査でも見てみたが、やっぱりまだまだ俺達は力が足りないようだ。気が進まないかもしれないけど、また街角に立ってくれないか?」

 逆縞は遠慮がちに尋ねてくるが、僕としては是非もなかった。ただ角が美しくないという理由で爪弾きにされた人達の隠れ家がここだ。それをより広くて快適な場所にすることができるなら、僕の負担などカウントするに値しない。

 角によって振り回される人生を送ってきた例は多くあれど、逆縞ほどの過去はそうないだろう。その凄絶さは僕などがおいそれと語ることも憚られるくらいだ。しかしそんな過去を背負っていながら、逆縞は誰に対しても優しく、また気を遣える人間だった。角さえ正常な姿をしていれば、さぞ幸福な人生を送ったに違いない。

「いいよ。人前に立つのは緊張するけれど、せっかくの取り柄だ。使わなければもったいない」

 僕は座ったばかりの椅子から立ち上がり、拡声器を物色する。

 逆縞が少し悲しげな顔をしているように見えたのが、不思議といえば不思議だった。

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