3章「沈む心、あふれる想い」その4

 そのころ、ルカは自分の部屋で一人、電話を握りしめていた。緊張で胸がどきどきする。でも、ここで逃げてはだめだと思う。別に初めて話す相手ではないのだ。これも華伝のためだ。そう考えると勇気が沸いてきた。それが消えないうちに、短縮ダイヤルに登録されている、その男の番号に電話した。


「おう、どうした華伝?」


 やたらと低い声の中年男、瑞島弓雅は、電話に出るや否や、こう言った。ルカはびくっと体が震えた。何度聞いても、この声、怖い……。


「い、いや、あの……私だ」

「お? お前かよ、鬼っ子。声を聞くのは久しぶりだな。はは」


 弓雅の対応は朗らかだった。しかし、ルカはやはりびくびくしてしまう。「鬼っ子とはなんだ!」と震える声で、必死に虚勢を張った。


「しかし、お前さんが俺に電話とは、また珍しいな。華伝と何かあったのか? 痴話喧嘩でもしたのか?」

「し、してない! ただ、今日はあいつの様子がおかしかったから……」


 そう、彼女は彼のことがとても心配だった。今日はいつもと違って、昏倒して、なんだかよくわからない赤いのに運ばれて帰って来た。それだけでも心配なのに、目が覚めた後は、飲めない酒を飲んで、荒れたようなのだ。電話が途中で切れたので、一階の男達が何を話しているのかはわからなかったが、時々怒鳴るような声が聞こえた。一体下で何が起こっているのか、すごく気になったが、赤いのが怖いのと、酔っぱらった華伝を前にして自分の衝動を抑えられるか自信がないので、様子を見に行くのを我慢するほかなかった。そう、酔いが回って上気して、ぐったりした彼を想像すると、胸が高鳴ったし、もしかして酔いに任せて服を脱いでいるかもと考えると、いっそうドキドキした。そんないやらしい状態の彼のもとに行くわけにはいかない……。


 だが、酩酊した彼の姿を想像してときめいても、当然、心配な気持ちが消えるわけがなかった。そこで、彼女は考えた。自分は彼のために何ができるのかと。赤いのに玄関先で聞いた「いろいろあった今日の出来事」を思い出しながら。そして、やがて、これしかないという結論に達して、勇気を振り絞って弓雅に電話したというわけだった。


「ゆ、弓雅、私は実は、お前に頼みがあるのだ!」

「なんだ? また薬の瓶を割るようなヘマをしたのか?」

「違う! 華伝のことだ。あいつに今回の事件を任せてはいかん」

「こりゃまた、藪から棒だな」

「あいつに今日、何があったのかは、孝太郎とかいう赤い男に聞いた。十一年ぶりに再会した弟が、とんでもない外道になっていたのだろう? そのせいで、目の前で祖父が瘴鬼となり、殺すしかなくなったのだろう? あいつにとっては、きっととても辛いことだったと思う。だから、あんなにぐったりして帰ってきて、酒なんか飲んでしまったのだ。あいつは傷ついている。だから、もうあいつに仕事をさせるな。頼む」

「まあ、それは、頼まれるまでもないんだが……」

「どういうことだ?」

「ついさっき、俺の方から華伝に連絡したんだよ。お前はもう仕事をしなくていい、休めって」

「え――」


 もしかして、自分はものすごく余計なことをしてしまったのだろうか。とたんに、顔が熱くなってしまうルカだった。


「な、なんでそんなことをするのだ、弓雅!」

「いや、俺から見ても、あいつは今日のことでかなり参ってるみたいだったからな。だから、これ以上無理させるわけにはいかんと思ったんだよ。左紋は今でこそどうしようもないクズだが、昔は華伝と仲がよかったみたいだしな」

「そ、そうだな……いくら左紋という男が外道でも、兄弟同士で殺し合うなど、あってはならんことだな……」


 ははは、と、ルカはぎこちなく笑う。恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分だった。


「ま、あんたも俺も、あいつの保護者として考えてることは同じだったってわけだ。それで、俺のほうが少し行動が早かった。それだけだ。そんなに恥ずかしがるなよ、鬼っ子」

「べ、べ別に、恥ずかしくなどないぞ! 私はあいつより年上の、大人なのだぞ! あいつのことを常に慮っているのだぞ! だから、こういう行き違いの一つや二つで、動じることなど、あり得ないのだ! 断じて!」

「そうか。じゃあ、後で俺の方から華伝に伝えておくとするか。大人のあんたから、これこれこういう電話があったと」

「や、やめろ! そんなことは絶対するな!」


 精一杯声を張り上げ、叫んだ。余計な気をまわしたとか、彼に知られるのはまた恥ずかしいことだ。どうせ、自分のやったことは、意味がなかったのだし。


「わかったよ。俺は何も言わねえよ。ただ、言ったら、あいつはすごく喜ぶと思うがな」

「いいから、言うな!」


 ルカはさらに念を押した。「わかった、わかった」弓雅は笑った。


「まあ、そういうわけだから、あんたは姉さん女房として、あいつをしっかり労わってやれよ。あんたが何か言うだけで、あいつはアホみたいに喜ぶからな」

「いや、あいつはそこまで単純では……」


 そう答えながらも、弓雅から彼の愛情のお墨付きをもらってうれしいルカだった。思わず顔がゆるんでしまう。


「じゃあ、俺はまだやることがあるし、またな。何かと気が張り詰めてたところだったし、あんたの声で少し和んだぜ。ありがとよ」


 弓雅は電話を切った。礼を言われてしまった。恥ずかしい行き違いはあったけれど、電話してよかったのかもしれない。ルカは緊張を解き、電話を充電台の上に戻した。


 と、そこで、ドン、と、誰かが外から部屋の扉にぶつかったような音が響いた。彼女はびっくりした。「だ、誰だ!」とっさに身構えて叫ぶと、扉の向こうから「僕です」と聞き覚えのある声が聞こえた。華伝だった。


「お、お前……いつからそこに……」

「だいぶ前から」

「じゃあ、もしかして、今の電話――」

「はい、ほとんど全部聞いてしまいました」

「な……」


 ルカは再び顔が熱くなってしまった。


「な、なぜ、盗み聞きなどするのだ! そんなのすごくいやらしいぞ! あんまりだぞ!」

「すみません。ルカが叔父さんと何を話しているのか、気になってしまって」

「いや、別に、たいしたことは何も――」

「そんなことないです。ルカが僕のことを心配してくれて、苦手な叔父さんに電話してくれたんです。僕の中ではものすごくたいしたことです。僕、ものすごくうれしいです」


 扉の向こうで彼は笑った。まだ酒が残っているのか、なんだかいつもより一段と子供っぽい口調だった。ルカはやはり恥ずかしさを小さな胸いっぱいに感じながらも、彼のその言葉に幸せな気持ちになった。思い切って電話してよかった。


「しかし、お前はなぜここに来たのだ? 一階で赤いのと飲んでいたはずだろう?」

「ええ。少しの間、横になってたんですけど、急に目が覚めてしまって。それで、なんだか無性に、あなたの声が聞きたくなったんです。電話じゃなくて、直接、近くで」

「そ、そうか……」


 自分も電話ではなく、近くで彼の声が聞けてうれしい……。


「でも、知りませんでした。ルカはちゃんとした大人の女性だったんですね」

「え?」

「さっき、電話で叔父さんにそう言ってたでしょう。自分のことを大人だって。正直、僕は笑いをこらえるのが大変でした。確かに、ルカは僕より年上だけど、全然大人って感じじゃないです。だって、大人の女の人は、お菓子のへそくりをクローゼットの中に隠したりはしないでしょう?」

「そ、それぐらい、いいだろう……」


 また別の恥ずかしさがこみ上げて来て、顔が熱くなる。


「よくないです。僕に内緒で、ってのが、特にダメです。今度、あんなお菓子のへそくりを見つけたら、中身は全部僕が食べて没収します。それで、代わりに、あなたの嫌いな炒り豆を詰めておきます。それを全部食べるまで、次から我が家ではお菓子禁止です」

「なんだと!」


 あのアルミの缶いっぱいに詰められたそれを想像して、ルカはぞっとした。あれは人間の食べ物ではあるが、鬼の食べるものではない、と思う。そう、人間が鬼を駆逐するためのもののはずだ……。幼いころ、節分という行事を知って以来、彼女は炒り豆という食べ物に恐怖を抱き、食べられなくなっていた。別に、炒り豆に鬼を殺すような効果はないのだが。しかも、他の豆製品は全く問題なく口にしている彼女だった。食べられないのは豆そのものではなく、炒り豆だけなのだった。


「華伝、お前は瘴鬼のくせに、鬼のような奴だ。それでは、私は二度と菓子が食べられないではないか」


 彼女はすっかりしょんぼりしてしまった。だが、そこで彼は、「冗談ですよ」と笑った。


「次に同じようなお菓子のへそくりを見つけても、見なかったことにします。ちょっとつまみ食いはするかもしれないけど。でも、あんまりお菓子ばっかり食べちゃだめですよ。あなたは、ただでさえ体が弱いんだから」


 彼の声はとても優しげだった。ルカはほっと胸をなでおろし、「わかった」と答えた。


 そして、ふと、彼がいつもの調子に戻っているように思え、尋ねた。「華伝、もう大丈夫なのか?」


「そうですね。大丈夫……かな?」


 彼はあいまいに答え、また少し笑ったようだった。


「今日は本当にいろいろあって、自分でもよくわからないんです。今日まで、竜薙の家のことは、自分の中ではもう完全に吹っ切れたと思っていました。左紋が死んだことを知らされても、家が全焼したことを知っても、僕はなんとも思いませんでしたし。でも、実際あの病院に行くと、いろいろ思い出してしまって……。僕のお母さんはあそこで亡くなったんです。入院中は学校の帰りに、左紋と一緒にお見舞いに行きました。その後、家に帰る時もあいつと一緒だったけれど、竜薙の家は山の中にあって、学校や病院のある町からはかなり歩いて、坂もたくさん登らなくちゃいけなかったんです。だから、左紋はたいてい途中で疲れて動けなくなってしまって、僕が背負って帰ることになりました。僕はいつもあいつに文句を言っていました。……今の左紋はもう、そんなこと覚えてないだろうけれど」


 昔を懐かしむような、それでいてとてもさみしそうな声だった。


「おじい様にもいろんなことを教わりました。よく竜薙の家の蔵に入れてもらって、そこにしかない古い本や巻物を僕に読んでくれました。そこの所蔵品は絶対に外に持ち出しちゃいけないことになってたんですが、ある日、僕はどうしても気になる絵巻物があって、左紋に見せてやろうと、こっそり外に持ち出したんです。それで、すぐにお父さんに見つかって、ものすごく怒られて……。でも、途中でおじい様が来て、私が許可した、と言って、僕を助けてくれたんです。その後、おじい様にもお説教されてしまいましたけどね」


 それは、ルカにとって、初めて聞く話だった。この十一年間、ずっと一緒に暮らしてきたが、彼は竜薙の家でのことを話したことはまったくなかった。


「そのおじい様の頭を、僕は手でつぶしました。いつもやってることなのに、今日はすごくいやな感じでした……」

「華伝、それはお前が悪いのではない。仕方のないことだったのだ」

「わかってます。でも、こういうのはきっと、理屈じゃない」


 それは痛みをこらえているような、つらそうな声だった。ルカは再び、そんな彼がとても心配になった。いったい、彼は今、どんな顔をしているのだろう? 泣いてたりしないだろうか? 扉にそっと近づき、ドアノブに手をかけた。少し隙間を開けて、彼の様子を見ようと思った。


 だが、彼は「今はダメです」と、外から扉を押さえて、開くのを妨害した。とてもあわてたように。


「なぜだ? 泣いているのか?」

「いえ、そうじゃなくて……。今、こちらに来られたら、僕はあなたのことをめちゃくちゃに抱き締めてしまいます。だから、ダメです。それじゃ、その後、あなたに食い殺されてしまう」

「あ……」


 ルカははっとして、とっさに扉から離れた。そして、ややあって、彼のその言葉を頭の中で繰り返し、全身が熱くなった。めちゃくちゃに……とは、どさくさに何を言うのだろう、こいつは。その感触を想像しただけで、胸が高鳴り、体はひどく昂って、うずいた。


「す、すまない、華伝。配慮が足りなかった」

「いえ、悪いのは酔っぱらってる僕の方です。今は自分を抑える自信がなくて」

「でも、私だって、本当は……」


 同じ気持ちだ、と、言いたくてたまらなかった。彼に強く抱きしめられたい。彼が落ち込んでいるのなら、自分のぬくもりで慰めてやりたい。ルカはそう願わずにはいられなかった。


 だが、彼女は懸命にその欲望をこらえた。そんなことをすれば、自分は間違いなく、彼を食い殺してしまう……。彼の死を想像することで、興奮は容易に鎮まった。しかし、代わりに深い悲しみが沸き上がって来た。彼を慰撫することも、彼をむさぼることも出来ない自分が、とても悲しかった。


「華伝、私はどうして人間ではなく、人食いの鬼なのだろう。それも、残月という、とても無力な、どうしようもない存在だ。いつも、お前に負担ばかりかけて、何も与えられない。それどころか、隙あらばお前を殺しかねない、とても淫らで、いやしい女だ……」


 気がつくと、涙を流しながら、そうつぶやいていた。だが、彼は「それは違う!」と、強く叫んだ。


「泣かないで、ルカ。僕が一番つらいのは、あなたがそういうふうに自分を責めて泣くことです。僕は、あなたの人食いの鬼の女性としての欲望を満たしてはあげられないけど、それ以外のことは、なんだってできるつもりです。そして、僕は、そういう自分をちょっとだけ誇らしく思っています。うれしいんです。あなたのために何か出来ることが。僕が何かすることで、あなたが笑ったり、喜んだりしてくれるのがすごくうれしくて、幸せです。だから、あなたは僕に何も与えてないってことはないです。僕はたくさん、あなたからもらっています。あなたがいるから、僕は、当たり前のように僕のままここにいられるんです」

「華伝……」


 ルカは彼のその言葉に、強く胸を打たれた。涙は止まった。胸いっぱいに、彼への愛しさがこみ上げてきた。「わ、私も、同じ気持ちだぞ。だいたい……」と、とっさに何か答えなければいけないと思い、しどろもどろになりながら言うと、いらない一言がついてしまった。「だいたいって何ですか」と、彼は笑った。


「ルカ、今日はありがとうございます。僕の話を聞いてくれて。そして、ごめんなさい、たくさん心配をかけたみたいで。僕、もう大丈夫です」


 彼はそう言うと扉から離れたようだった。


「おやすみなさい、ルカ」


 彼は一階に戻って行った。

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