2章「竜薙華伝」その2

 そのころ、ルカはようやく自室のベッドの上で目を覚ました。しばらく横たわったままぼんやりしていたが、やがて昨晩のことを思い出し、顔が熱くなった。


 私は、ゆうべ華伝とキスを……それも何回も……。うれしくて、同時に胸の奥がくすぐったいような恥ずかしさがこみあげてきて、ベッドの上で枕を胸に抱きしめて、転がったり手足をばたばたさせてしまうルカだった。彼が上半身裸だったのも非常にときめくところだった。彼は一見痩せているようで、脱いでみるとちゃんと筋肉がついていて、引きしまった逞しい体をしていた。着やせするタイプというやつなのだろうか。その力強い腕に後ろからぎゅっと抱きしめられたり、押し倒された時の感覚を思い出すと、体温がますます上がるようだった。さらに、その後、朦朧とする意識の中、彼にお姫様だっこでベッドに運ばれたのだから、もうたまらない。にやにやせずにはいられない。


 だが、そこで、彼をまた殺しかけたことを思い出し、一気に気持ちが沈んでしまった。どうして自分はいつも我慢できないのだろう。彼は気にしないでと言ってくれたが、そのやさしさを思うと、余計に自己嫌悪に陥ってしまう。どんよりした気分で、今度はベッドの上で膝を抱えてしまうルカだった。彼女は昔から、落ち込んだ時はいつもこういう姿勢になって縮こまってしまう。


 と、そこで、ベッドのわきの台の上に書置きのメモが置かれているのに気づいた。華伝からだ。今回の事件には竜薙の家が関わっているようなので、今日は祖父に話を聞きに行く、もしかしたら帰りが遅くなるかもしれない、という内容だった。


 竜薙の……? なぜ今さらあの家の名前が出てくるのだろう。ルカは昔のことを思い出し、複雑な気持ちになった。そう、十一年前、彼女は母親を竜薙の家の者に殺された。だから、この家の名前は二度と思い出したくなかった。だが、時を同じくして、華伝という少年に出会った。それは彼女にとっては何物にも代えがたい、特別な邂逅だった――。



 かつて、幼い彼女は人食いの鬼の母とともに旅をしながら暮らしていた。鬼の多くがそうであるように、彼女の母もまた、不思議な能力を持っていた。能力は鬼により異なるが、母の場合は人の心が読めるというものだった。そして、それを利用して彼女は、死にたがっている人間を見つけ、自分が人食いの鬼であることを打ち明けた上で、命をもらえないかと交渉し、時には一晩をともにして慰撫し、人間を食べ、自分と娘の糧としていた。


「よいか、ルカ。この世界には死にたがっている人間は多い。それを探し出すことができれば、我らは決して人間に目をつけて狩られることはない。彼らは鬼である我らに比べで脆弱だが、数はとても多い。ゆえに、我らは彼らを敵に回すことなく、ひっそりと暮らしていかなければならぬのだ」


 齢、二百歳を超える母はよくルカにこう言っていた。ルカは、そのときはまだ幼く、母が吸って来たばかりの人の魂生気を口移しでもらうだけだったが、いつか、自分も母のようなやり方で人を食べる鬼になるのだと思っていた。


 しかし、十四歳になったばかりのころに彼女は残月の呪いにかかかった。それは、鬼が本来生きるために必要な人間の魂生気を一切受け付けなくなる体質になるというものだった。いわば、アレルギーのようなもので、残月の鬼にとって人間の魂生気は毒と同じになるのだ。


 彼女の母親は当然、それを嘆き悲しんだが、彼女を少しでも生かそうと、人間の代わりに瘴鬼の魂生気を彼女に与えるようにした。だが、そうやって瘴鬼を狩り続けるということは、おそらく、鬼や瘴鬼の討伐を生業としている人間達の領分を侵すことになったのだろう。鬼の母子は彼らに目をつけられ、ある晩秋の夜、ホテルの一室で眠っていたところを竜薙家の者たちに奇襲された。


 ルカの母親は懸命に彼らに立ち向かったが、すぐにルカを人質に取られ、抵抗できないまま、鬼封剣と呼ばれる、鬼殺しの剣で突かれ、切り裂かれた。ルカは男達に取り押さえられ、なすすべもなく泣き叫ぶしかできなかった。彼らは事前にルカがとても弱い、残月の鬼であることを調べていたようだった。


 やがて彼女の目の前で血まみれの母はぐったりとして動かなくなった。ルカもまた薬をかがされ、眠らされた。次に目を開けた時には、彼女は薄暗い座敷牢にいた。両手両足に枷をされて、身動きできない状態だった。さらに気絶している間に鬼封棒か何かで打たれたのだろう、両足の足首がひどく痛んだ。牢には高いところに小さな窓がついており、外からわずかな光が差し込んでいた。


 母はどうなったのだろう。そして、自分はこれからどうなるのだろう。彼女は恐怖と不安でいっぱいだった。周りの牢からは時折、獣の鳴き声のようなうめき声が聞こえてきた。だが、そんなとき、突然、彼女の座敷牢に一人の少年がやって来た。十歳くらいの、道着姿の、端正な顔立ちの少年だ。彼は素手で牢の窓の格子を破壊して中に侵入し、手足の枷も同様に破壊して、彼女に手を差し伸べた。「あなたをここから逃がしてあげます。僕と来てください」と。その少年の瞳はうっすらと金色に光っていた。


 ルカはその少年がどういう状態なのか、一目でわかった。母の瞳術だ。そう、おそらく彼は人ではない。瘴鬼だ。そして、鬼ならば誰もが持つ能力、瞳術、すなわち、鬼が瘴鬼を意のままに支配し操る能力を母から受けているのだ。うっすらと金色にきらめく瞳がそのあかしだ。きっと、母も自分とそう遠くない場所に閉じ込められているのだろう。


 彼女はすぐに彼の小さな手にすがりついた。他に選択肢はなかった。少年は脚を怪我して歩けない状態の彼女を背中に担ぎ、牢を抜けだした。彼女のいた建物は古い日本家屋のようだった。周りには竹林が広がっていた。もうすぐ夜が明ける頃合いらしく、空の端がうっすらと白みはじめていた。


 少年は彼女を背負ったまま、さくさくと竹林を早足で歩いていく。彼女はここはどこなのかと彼に尋ねた。すると、竜薙家の敷地だと抑揚のない声で彼は答えた。広い敷地の一角に、竹林に覆われた、瘴鬼となった人達を隔離しておくための館があるのだという。彼女はそこに閉じ込められていたらしい。


 やがて竹林は開け、二人は高い塀の前に出た。竜薙家の敷地の境界線のようだった。ここからどうするのだろう。ルカは少年の顔をうかがったが、そこで彼の目が赤く光るのを見た。彼はルカを担いだまま、軽く助走をつけてジャンプし、その塀を飛び越えてしまった。瘴鬼の力を使ったようだった。


 塀の向こうは山になっていた。勾配は決してなだらかではなく、道などどこにもなく、さらにとても暗かったが、少年はルカを担いだまま、軽々と木々の間をかき分けて行った。やがて、彼はふと立ち止まり、一瞬周りをきょろきょろ見回したのち、再び歩き出した。そして、ほどなくして、もう廃屋となっているらしい古い炭焼き小屋にたどりついた。


「ここでしばらく隠れていた方がいいと思います。ここは僕だけが知ってる秘密の場所だし、たぶん大丈夫です。その足の怪我じゃ、今は遠くには逃げられないだろうし……」


 少年はちょっと自信がなさそうな口調だった。さっきまでの抑揚のない声とはまるで違う。ルカははっとして、彼の瞳を見た。金色のきらめきは今はそこにはなかった。そう、もう瞳術は解けている。


「お前は私を助けてくれるのか?」

「はい。あなたのお母さんに頼まれましたから。心の中で」

「だが、それは洗脳のようなものだったはずだ。そしてもう、術は解けているのだろう」

「……はい。ここに来る途中で」


 少年は彼女を下におろすと、砂利まみれの小屋の床に腰を落とし、うつむいた。そして、小さな声で一言、「ごめんなさい」と言った。


「なぜ謝る」

「あなたのお母さんの鬼、ついさっき死んじゃったみたいです。だから、急に術が解けたんだと思います」

「え――」


 ルカは耳を疑った。「うそだ!」と反射的に叫んだ。だが、少年は「ごめんなさい」と繰り返すばかりだった。


「あなたのお母さんの鬼はひどい怪我をしていました。それなのに、無理をして僕に術を使ったから、きっとそれで……」


 少年はまるで痛みをこらえてるような口調だった。そしてそれが、嘘をついているわけではないことをルカに悟らせた。彼女はたちまちその場に泣き崩れた。悲しみで胸が張り裂けそうだった。


「あなたのお母さんの鬼は、とてもやさしい声をしていました。僕のお母さんの声と、少し似てた……」


 やがて、少年は独り言のようにつぶやいた。似ている、ではなく、似てた? ルカはふとその言い回しが気になった。


「お前の母親は今はどうしているのだ?」

「……死んじゃった。今年の七月に、病気で」


 少年はかすれた声で言うと、目をしばたたかせ、やがて手のひらで乱暴に目元をこすった。涙をこらえているようだった。


 そうか、この子の母親も……。ルカはなぜ彼が瞳術が解けても自分を助けてくれたのか、わかった気がした。彼のことを、すごく近い存在に感じた。


 だが、同時に彼のことをよくわからなくもなっていた。彼は瘴鬼だ。欲望のままに狂い、破壊し、殺戮する化け物のはずだ。どうして、自分の意思で無力な鬼の娘を助けたり、母親の死を悲しんだりできるのだろう? まるで、瘴鬼ではない、普通の人間の子供のように見える。


「お前は何者なのだ?」


 気がつくと、彼女は彼に尋ねていた。


「僕は、竜薙華伝って言います。あの大きな家の、当主っていう一番偉い人の子供です。でも、本当の子供じゃないんです」

「養子ということか?」

「はい。僕は生まれつき瘴鬼っていう化け物だから、本当は赤ちゃんの時に殺されるところだったそうです。でも、それを僕のお母さんが助けてくれて、自分の子供にしてくれたんです」


 ルカはびっくりした。生まれつき瘴鬼だなんて聞いたことがない。それに、その瘴鬼の子供を、鬼殺しを生業としている一家が育てているとは。


 華伝はさらに、自分はルカが幽閉されていた館で生まれたのだと話した。瘴鬼となった妊婦の腹から取りだされたということで、本当の母親はすぐに死んだらしい。


「僕もいつか、あそこに閉じ込められてる人達と同じになるんだと思います。だって、僕は普通の人間とは違うから……」


 そういえば、牢に閉じ込められている時、瘴鬼たちのものと思しき声を聞いた。彼らはもはや、心を持たない獣のようだった。この目の前の華伝という少年も、いずれそうなるのだろうか……。ルカにはそうは思えなかった。彼は自分と同じように、母を失った悲しみを胸に抱いている。


「そうなるとは限らんだろう。生まれつきなのだし、お前はきっと大丈夫だと思うぞ」

「そうでしょうか」


 華伝はすがるような目つきで彼女をじっと見つめた。「そ、そうに決まっている!」根拠はとぼしかったが、きっぱりと言い切った。


「お前が亡くなった母のことを忘れなければ、決して獣のような、心を失った化け物にはならない……はず?」

「はず?」


 華伝は不安げに小首を傾げた。「いや、絶対だ!」ルカは焦って、さらに念を押した。


「いいか、もし自分が平常でいられなくなりそうになった時は、母親のことを思い出せ。そうすればお前は大丈夫だ。たぶん……じゃなかった、必ずな。必ず」

「はあ……」


 華伝はいかにも半信半疑という顔をしていた。だが、やがて彼はふと、彼女に顔を思いっきり近づけてきた。


「そういえば、まだ僕、あなたの名前、聞いてません。なんて言うんですか?」

「私か? ルカというが……」


 彼に間近でじっと見つめられて、彼女は顔が熱くなってしまった。今まで、母親以外とはあまり口を聞いたことはなかった。


「ルカ……ですか。いい名前ですね。覚えました」


 そんな彼女に華伝はふと微笑んだ。


「お母さんのことを思い出すのは悲しい気持ちになります。だから、もし僕が、普通の人間じゃいられなくなりそうになったときは、ルカ、あなたのことを考えるようにします」

「わ、私のことを?」

「はい」


 華伝は再び微笑み、彼女の手に自分のそれを重ねて「約束です」と言った。そして、すぐに彼女から離れた。


「僕、そろそろ戻らなくちゃ。また来ます。ルカはここで待っててください」

「ああ……」


 彼はそのまま小屋を出て、薄暗い林の奥に消えて行った。ルカはもしかしたら、彼はもう二度と来ないのではないかと思った。なにせ彼は、鬼殺しの一家の嫡子だ。このまま自分を見捨ててもおかしくはない……。


 だが、彼はそれから二時間ほどでルカの元に戻って来た。小学校に行くところなのだろう、トレーナーと半ズボン姿で、ランドセルを背負っていた。そしてその中に、飲み物やお菓子を詰め込んでいた。


「これじゃ足りないと思うけど、我慢してください。あんまりいっぺんに家から持ち出すと、変に思われちゃうから……」


 彼は申し訳なさそうに言ったが、ルカは彼が戻って来たことがうれしかった。自分のために食べ物を持ってきてくれたのがうれしかった。「ありがとう。腹が減っていたところだ。助かる」お礼の言葉が自然と口から出た。

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