第3話① 長い修羅場の始まり

「はあー、やっと終わった……。たかが学祭の人気投票なのに数多すぎだろ」


 俺の隣を歩く真岡が、げんなりとした様子でぐっと手を伸ばした。夏服のブラウスの上にサマーニットを着ているはずなのに、それでも豊かな曲線美が強調される。

 

 思わず俺は視線を外した。彼女に目を奪われるわけにはいかない。

 ……いかない?


「だから俺も手伝ったろ……。それで俺たちは晴れて自由の身。このままランチタイム、午後の自由時間だ」


 そんな脳裏に浮かんだ思考を打ち払い、俺は今の現況を自分の口で説明した。

 

 ちなみに、高梨会長と美夏さんは生徒会室で目下歓談中だ。久しぶりの再会で、会長が目に見える形でテンションを上げていた。あのいつも余裕たっぷりでザ・上級生、といった感じの会長が、美夏さんには『憧れのお姉さま』みたいな態度で接していたのは驚きだった。さすが庄本高に大きな爪痕を残したレジェンドOGである。


「ランチタイム、か。……柏崎。昼メシはどうするんだ?」

「へ? どうするって……」

「あ、えっと、エリスと約束があったりするのかなって……」


 真岡は気まずそうに頬を掻く。

 ……何だよ、そのリアクションは。


「あ、ああ。いや、エリスとは演劇が終わるまでは何も約束はしてない。今日も準備やリハーサルで忙しいみたいだから」


 俺が誘ったのは演劇が終わった後の時間だ。


「……そっか」


 ならいいのかな。いやでもさすがに二日連続は悪いかな、とか、真岡は小声でぼそぼそと言っていた。

 なんて返すべきか。俺が言葉を紡げずにいると――――――


「あ! 悠君! やっと見つけた!」


「え、桐生?」


 廊下のはるか向こうから、桐生が慌てた様子で駆け寄ってきた。珍しくかなり息を切らしている。

 彼女は俺たちの前まで来ると、一つ大きく息を吐いてから、俺、次に真岡を一瞥した。


「真岡さんも一緒だったのね。そっか、同じ仕事の割り当てだったものね。ちょうどよかった」


 しかし、真岡に対するいつもの剣呑な色はない。そして「ちょうどよかった」。桐生の深刻な雰囲気に、ただ事ではないことがあったのかもと身構える。


「何度もLINE入れたのに返信がないから、直接探しに来たの。真岡さんも」


 言われて、俺と真岡は同時にスマホを取り出す。すると、数件連続で桐生からのメッセを知らせる通知ランプが点滅していた。真岡を見ると、彼女も小さく頷く。どうやら同じ状況だったようだ。


「ちょうどよかった? 探しに? 何かあったのか」


 真岡も同様の感覚を持ったに違いない。茶化すことなく直球で尋ねる。


「移動しながら説明するわ。ちょっと……エリスの演劇班のところでトラブルがあって」


 言い終わらないうちに、桐生は俺たちを先導して歩き出す。俺と真岡は小走りで彼女の後を追う。


「トラブルって何だよ」

 

 嫌な予感がした。

 

 桐生は俺たちに振り返ることなく、前を見据えたまま淡々と事実を口にする。


「ロミオ役の木戸君がエリスに告白したの。本番直前のこのタイミングで」


 堅いコンクリートの上を歩いているのに、底なしの沼に足が沈んだ気がした。


 

 ×××



 俺たちが演劇部の控室に足を踏み入れると、出演者や裏方のスタッフたちはざわざわと喧噪の最中にあった。どう見ても、本番直前の引き締まった空気ではない。明らかに浮ついている。


 その中心で、あちこちに指示を飛ばしている演劇部の部長、西條さいじょう若葉わかば先輩の下に俺たちは駆け寄る。


「西條先輩。悠……柏崎君と真岡さんを連れてきました」


 桐生が声をかけると、西條先輩はこちらに振り返った。


「あ、千秋ちゃん。お疲れさま。カッシーも葵ちゃんも、来てくれてありがとね」


 その小柄で頼りになる上級生は苦笑する。その表情には明らかな疲れが見て取れた。


「えっと……それでエリスは」


 俺が問うと、西條先輩は小さく首を振った。


「エリスちゃんには控室で休んでもらってる。気疲れしちゃっただろうから。今はそっとしておいてあげて」

「そ、そうですか……」


 その答えは、本当に俺が聞きたいものじゃなかった。もちろん、今はそれどころじゃないのは理解している。でも――――――

 そんな俺の揺れる心理を読み取ったかのように、彼女は言った。


「エリスちゃんは告白をしっかり断ったよ。その場でね」

「……そう、ですか」


 ……とてつもなくホッとしている自分が情けなくて恨めしい。俺の気持ちなどどうでもいい状況なのに。エゴ丸出しだ。


「まあ、だからこそちょっと面倒なことになっちゃったんだけどね。……葵ちゃん」

「あ、ああ」

「申し訳ないんだけど、脚本を今から少し修正したいの。それで呼んだんだ」

「え、い、今から?」


 真岡は控室内の時計を見た。今は11時。本番まで3時間しかない。

 だが、西條先輩は迷うことなく強く頷いた。


「うん。抱き締め合うシーンも、フリだけだけどキスシーンも急遽全部カット。こうなっちゃったらね。でもそのままだと違和感ありありだから、セリフや演出でフォローを入れたいの。ホント間に合わせでいいから」


「カット、って……」

「当たり前でしょ。本番直前に前触れもなくいきなり気持ちをぶつけてきて、しかし断った男子とのラブシーンなんて、同じ女子としてさせられないよ。本当なら代役を立てたいくらいなんだけど、さすがに今回の参加者にそこまでできる人はいないし、演劇部員はみなほかの出し物に参加してるから。緊急措置しかないんだ」


 西條先輩はどこまでも冷静だった。


「こんなアクシデントがあっても落ち着いてるんですね。西條先輩は」


 俺と同じ感想を桐生が言うと、西條先輩は優しく微笑んだ。


「うん。実はね、演劇部ってこの手のトラブルがないわけじゃないの。お互い気持ちをぶつけ合うのが演劇だから、演技と分かってても、盛り上がったり勘違いしちゃったりする人も結構いるんだ。まあ、部員じゃない学祭の劇だからって油断してたあたしにも責任あるしね。木戸君がエリスちゃんに好意を持ってることは気づいてたのに……」


 彼女は悔しそうに唇を噛んだ。無理もない。いくら部活ではないとはいえ、西條先輩がこの劇をいいものにしようと努力していたのは、遠目に見ていた俺でさえ伝わってきていた。エリスが頑張っていたのも、彼女の影響によるところが大きいだろう。


「それで、俺や桐生は何をすれば?」

「千秋ちゃんには、生徒会や準備委員との連絡係をお願いしたいの。舞台配置やタイムキープまで変わるかもしれないから。まずは瑠璃に状況を説明してきてほしい」

「わかりました」


「カッシー……ううん、柏崎くんには――――」


 そこで西條先輩は「ごめんね」とだけつぶやき、だが、それでいて一切俺から目を逸らすことなく言い切った。



「木戸君を探し出して、この場に連れ戻してほしいの―――――――」

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