④青春タイトル争い ~対話~

 もちろん、キスだよ――――――。


 そう挑発的に言い放ったエリスは、そのしなやかな指で自らの唇を撫でると、俺の左肩にそっと優しく手を置いた。そのやけに官能的な仕草に身体中の体温が上昇し、血液が沸騰したような錯覚に陥る。


「え、エリス、い、いきなり何言ってんだよ。つ、つまんない冗談はよせ」


 慌てて言い返す。しかし、


「どうして? さっきも言ったよ。わたしたちの文化ではあいさつでもキスすることがあるんだって。そんなに大げさなことじゃないし、大丈夫だよ」


 彼女はどこか蕩けたような笑みを浮かべた。闇夜の中で浮かぶ碧色の瞳が、いつもと違う怪しい光を湛えている。


 一瞬、エリスのその妖艶な姿が先の、お化け屋敷での真岡と重なった。


「―――――――」


 自分でもどうしてか理解を拒んでいるが、その思考そのものがとてつもなく罪深いことのように思えて、熱を持っていた脳と身体が急激に冷えていく。


 その時の俺はどんな表情をしていたのだろうか、エリスはなぜか一瞬だけ傷ついたような顔になり、


「なーんてね、ジョークだよ、ジョーク。……ごめんね。さっきのおろおろしてる悠斗が可愛かったから、ちょっといじわるしてみたくなっちゃった」


 困ったように笑ってペロリと舌を出す。


 な、なんだよ。そういうの、心臓に悪いって。俺だって一応思春期男子なんだぞ。

 俺は深呼吸を繰り返して、酸素と一緒に落ち着きをどうにか全身へと行き渡らせる。


「そ、そうだよな。キスが挨拶なのは、ヨーロッパでも南のほうのラテン系の人だけって聞いたし。北に行くほどそういう習慣はなくなるんだろ?」


 やっとのことでそう反論すると、エリスは瞳をぱちくりさせる。


「悠斗、知ってたんだ」


 そのキョトンとした様子に、いつもの純朴な彼女が戻ってきたようで、俺はようやく、少しだけ安堵した。


「だって、エリスがずっと言ってるじゃないか。“わたしたちの生活の中には色々な文化や背景の人がいる”って。外国とか欧州とか大きなくくりのステレオタイプで判断するのは良くないと思って、俺もちょっと勉強したんだよ」


 当たり前だが、国境が変われば言葉も変わる。習慣も風習も違う。それはアジアだろうがヨーロッパだろうがさして変わらないはずだ。日本から遠い地域だとなかなか意識が及ばないけれど。……いや、もうこのご時世、国境という考え方自体が古いかもしれないが。


「そっか……。悠斗、ありがと」


 一人一人、みんな違う。


 当たり前のことであって、幼い頃から何度となく教えられることではあるけれど、同調圧力の強い俺たち日本人にはどうしても体得しにくいその発想。


 エリスたちはそういう世界に常に身を置いている。


 だから、少しでも、俺は。


「もっと言えば……エリスの国ではどうこうっていうより、エリス個人がどう感じるかとか、どうしたいとかってことはもっと知っておきたい、かな」

「えっ……」

「さっきの間接キスの話と同じだよ。エリスが不快に感じるようなことはできるだけ避けたいし、逆に気にしないって事柄なら俺もあんまり神経質になりたくない。ま、キスはさすがにちょっと考慮してほしいけど。たとえエリス個人がすっごいキス魔だとしてもさ」


 途中からやたらクサいセリフを滔々と並べていることに気づいて、慌ててそんな冗談を語尾に付けて取り繕う。

 すると、エリスはその陶磁器のような顔を真っ赤に染め、ムキになる。


「なっ……! わ、わたしそんなエッチじゃないよ!」

「なんだ、やっぱり挨拶でも習慣でもないし、無理してたんじゃないか」

「うっ……」


 ひるんだエリスに、俺は苦笑い。

 彼女は頬染めたままぷいと顔を逸らし、ボソボソとつぶやく。


『べ、別に無理してたわけじゃないし……。わたしの国だって、家族とか恋人とか……好きな人とかとはハグやキス、いっぱいするもん。……悠斗のニブチン』

「?」


 しかも、なぜか母国語でだった。俺の名前くらいしか聞き取れない。


「……とにかく、さっきのエリスみたいに、俺もエリスが平気なこととか苦手なことをきちんと聞くようにするよ。……って、あっ、そうか」

「? どうしたの?」

「いや、エリスがずっと言ってた、『言ってくれなきゃわからないよ』って言葉の意味が、ちょっと実感として理解できたような気がしてさ。……こういうこと、なんだな」


 俺が自分で自分に頷いていると、エリスは嬉しそうに破顔した。


「うん。こうやって話し合って、気持ちを口にして、大切にしてること、好きなこと、許せないこと、傷つくこと……お互いに知っていけば、いつかきっと分かり合えると思うの。最初はものすごく遠い二人、でもね」

「……そうだな」

「あと……悠斗、さっそくだけど、一つ聞いてもいいかな?」

「おう、もちろん」

「悠斗こそ、わたしに合わせようとしすぎて、無理してない?」


 エリスの瞳が不安げに揺れる。


「……へ? 何で?」

「だって悠斗、あまり人に踏み込まれたり、自分の話をしたりするの、好きじゃなさそうだから」


 ちょっと前に、エリスが台本の読み合わせのためにうちに来た時と、言葉こそ違うが本質的には同じ問い。

 あの時は琴音に茶々を入れられて有耶無耶になってしまったが……。

 今度こそ、しっかりと答える。


「別に嫌いってわけじゃないよ。俺が他人に干渉されるのが苦手なのは、自分のオタクっぽいところとかコミュニケーションが得意じゃないところとかを知られて、バカにされるかもってビビってるだけだし。でも、エリスは絶対にそんなことしないって、そう思えるから。全然平気、大丈夫さ」


 うん、自分でも口にしていて、エリスには平気な理由が整理されてくる。


「これはエリスの力なんだ。俺みたいなビビりのひねくれ者をこんなにも信じさせちゃうくらい、さ。だからそんな心配無用だよ。遠慮なんてしなくていい。正当な権利だ」


 ……って、俺、同じようなこと何回も言ってんな。


 ……でも、きっとこれでいいんだ。こうやって対話を繰り返していくことでしか、バックグラウンドの遠い者同士は分かり合うことはできないのだ。


「悠斗……!」


 エリスは感極まったように瞳をかすかに潤ませると、立ち上がって俺をはっきりと視線に捉えた。淡い月光がその現実味のない容貌をより神秘的に映し出す。


 そして、この世のものとは思えないほど美しく微笑んだ。


「明日……劇が終わったら、わたしを迎えに来てね。待ってるから」


「……ああ」


 こうして、俺の杜和祭は2日目を迎える――――――。


 

 ×××


 

 エリスは悠斗に見えないように小さく口を動かす。


『悠斗……もうあなたへの気持ち、抑えられないよ―――――』

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