③青春タイトル争い ~〇〇キス~
「それじゃ、あたしはお邪魔みたいだしさっさと退散するよ。ああ、明日はちゃんと瑠璃のところに顔は出すから」
美夏さんはさっきまでの陰った表情を消すと、窓際に立っていたエリスの肩をポンと叩いてから店の中に戻っていく。
つーかお邪魔って……そ、そんなんじゃねえし。
エリスは、そんな美夏さんの背中を目で追いながら、
「悠斗、美夏と何話してたの?」
「ん? ああ、高梨会長が会いたがってたって話だよ。会長から伝えておいてくれって頼まれててさ」
嘘こそ言っていないが、会話の内容は必要最小限に留めておいた。相手がエリスといえど、許可なく言いふらすようなことじゃないだろう。
そのくらい、美夏さんにとって大切な過去に思えた。
「ふーん……」
納得したのかしていないのか、エリスはそう小さくつぶやくと、さっきまで美夏さんが座っていた椅子に腰を下ろす。
「エリス、どうしたんだ? なんか用事でもあったか?」
俺としてはシンプルに用件を尋ねただけのつもりだったが。
「むー……」
しかし、エリスはこの埼玉の夏のような、湿度100%のじっとりとした視線を送ってくる。
……どうやら俺は初歩的なミスをかましてしまったらしい。
「理由がないと悠斗のとこに来ちゃダメなの?」
ほら。すぐそういうこと言う。わずかに頬を膨らませているのが、可愛らしいけどあざといぞ。
「あ、いや、そういうわけじゃないけど」
「ならいいよね。ちょっとお話しよう?」
エリスは気を取り直すように、持ってきていた麦茶をストローで飲み始める。
彼女は北欧人らしく、もともとかなりのコーヒー党だが、最近はこうしてよく麦茶とか緑茶とか好んで飲んでいる。こんな何気ないところでも、日本に馴染んでくれているようで嬉しくなった。
エリスはぷはっと可愛らしい吐息を漏らすと、その手で自らを煽ぐ。
「ホント、日本は夜でも暑すぎだよー。身体とけちゃいそう」
「……大丈夫か? 店の中に戻るか? クーラー効いてるし。今日は疲れただろ?」
「ううん、平気。だいじょぶだよ。ふふっ、悠斗、わたしに対してカホゴ? すぎじゃない?」
「いやだって……」
心配だし、と俺が最後まで言い切る前に、エリスは椅子に座ったまま、ガタンゴトンと揺らしながら俺のすぐそばまで寄ってくる。もはや肩が触れそうな距離だった。ましてや、もうリラックスタイムに突入しているのか、半分ルームウェアのようなラフな格好になっている。ショートパンツから伸びる新雪のような脚線美が目に毒だ。
ち、近い……。
「……暑いんじゃなかったの?」
「うん、すっごく暑い。ベリーベリーホット」
なんで英語。
「じゃあ何で近寄ってくるんだ……」
俺が呆れていると(もちろん心臓はバクバクだ)、エリスはなぜか麦茶の入ったカップを俺に突き出してくる。
「だから悠斗も飲むよね? コーヒーだけじゃのど渇いちゃうでしょ? はい、少しあげる!」
「……え?」
俺の視線は、嫌でもそのストローの先端に釘付けになってしまう。さっきまでエリスが咥えていた、ストローの。
「え……い、いや、へ、平気だ。あ、ありがとな」
「えー? これ、五郎が淹れてくれた特製の麦茶ですっごくおいしいよ? 悠斗も飲んでみてよ」
エリスはさらにカップを近づけてくる。もはや俺の唇にストローが触れそうだった。心拍音がさらに跳ね上がる。
「で、でも……」
俺がいつまでもテンパりながら右往左往していると、エリスはやがてハッと何かに気づき、次第に表情を曇らせる。
「……あ、ごめんね、悠斗。ひょっとして汚いの、イヤだったかな?」
「……は?」
「わたしが口をつけちゃったからだよね。そういうの、気になるなら言ってくれていいよ。大事なことだし」
「え? ちょ、ちょっとエリス? その、大事って?」
俺は単にめちゃくちゃ気恥ずかしかっただけなのだが、
「日本語だと衛生面……って言うのかな? こういうのって、国とか文化で違うし、一人一人でも感じ方違ったりするし。悠斗がイヤなら仕方ないよね。次からは気をつけるよ」
エリスはやけにシリアスに捉えていたようだった。
そこでようやく、なるほど、そういうことかと合点がいった。彼女たちにとっては、こうした何気ないやりとりであっても、相手とのすり合わせが必要なのだ。様々な人種、宗教、文化に囲まれて生きてきた者たちならではの発想で、処世術だ。
……って。
「ち、違うって! そういうことじゃない! エリスが不衛生とかそんなことあるわけないだろ!」
エリスは綺麗だし、清潔だし、今だってすげーいい匂いがするし……。
じゃなくて!
「そうじゃなくて……ただ恥ずかしかっただけだよ」
「恥ずかしい? なんで?」
今度はエリスが首を傾げる番だった。
「だ、だって……」
「だって?」
「か、間接キスだし」
俺は彼女から顔を逸らしつつ、やっとのことで声を絞り出す。
……我ながらキモさ丸出しの発言である。
「かんせつきす?」
エリスはその首の角度がさらに深くなる。
「えっと……それって確か……」
彼女は、自らの記憶を手繰るようにうーんとしばらく唸ってから、「あっ!」と両手を叩いた。
「思い出した! この前琴音から借りたマンガで見たよ! 主人公の女の子がすっごく赤くなってたやつだ! でも、そのときは何が恥ずかしかったのか全然わからなかったんだよね」
「……エリスの国だと、そういうの気にしないのか? その……物越しとはいえ、唇同士が触れ合っちゃうのをさ」
……やばい、自分で言っててマジで気持ち悪い。
エリスは、口元に指を当てる。話題が話題なので、どうしても彼女の艶めいた唇に視線が吸い寄せられてしまう。
「気にしないっていうか……考えもしなかったって感じかな。たぶん、“かんせつきす”を意味する単語とか、わたしたちの言語にないし」
「そ、そうか……」
「そもそも、わたしたちの間じゃ本物のキスだってあいさつの一つだったりするんだよ?」
「…………」
これ以上ないくらい、説得力のある根拠だった。
「挨拶でキス……。知識としては知ってたけど、やっぱり信じらんねえ……」
この世界のあちこちで起きている日常的な事象とは思えない。陰キャ非リア日本人の俺じゃあ、地球の自転が逆転したとしてもありえない。もちろん、挨拶のキスが唇じゃなくて頬だとしてもだ。
だって……俺が、できるか? 彼女に。
そんな気色悪い妄想に囚われていると、
「……じゃあ悠斗、してみる?」
「……え?」
……何を。
「もちろん、キスだよ」
エリスは、普段の彼女からは考えられない、蠱惑的な笑みを浮かべてそう言った。
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