第5話⑪ 永遠に忘れない
『何より……日本に来たばかりで不安だったわたしに……声をかけてくれた人がいました』
「え――――」
エリスの意を決したような独白に、呼吸が止まりかけた。隣にいる真岡と司の視線が俺に向くのを感じる。
『その人はずっと……ずっと、わたしを手伝ってくれました。助けてくれました。ちょっと、みんなと違う考え方をするわたしのことを……尊重してくれました。守ってくれました』
ふと、エリスの柔らかい微笑みがこちらに向けられたような気がした。……気のせいだろうけど。こんな暗い観客席の隅にいる俺たちが彼女の目に入るとは思えない。
『わたしが今、楽しくしていられるのは、その人のおかげなんです』
……エリス。
『だから……前よりもっと、もっと……日本のことが好きになりました!』
エリスの熱さ、そして情緒と感傷が折り重なった尊い叫び。それを聞いた観客のテンションは今、最高潮を迎えた。
「……想われてるねえ」
俺の脇腹を肘鉄しながら司が囃し立ててくる。つーか痛てえ……。
「……からかうなよ。第一、俺を指してるとは限らないだろ」
「……悠斗、それ本気で言ってる?」
「……柏崎。今時、『え? 何だって?』的な鈍感主人公は流行らないぞ。読者のヘイトを余計に集めるだけだ。特に女のな」
司に加えて、真岡までも俺に冷めた視線をぶつけてくる。彼女の目がかすかに赤かったのは気づかないフリをした。
……俺、別に主人公じゃねえんだけどな。もちろん親友ポジですらないし、一介のモブですらない。
それに今、この物語の主人公は―――――
『だから、今日は、そんなわたしの周りにいる人たちのために……そして、その人のために……歌います!』
再び上がる大歓声。
ステージの上で光り輝く彼女こそが相応しい。『その人』なんかじゃなくてな。
『じゃあ、わたしがエリスさんの歌う曲の紹介をしますねー!』
ここでまた、小野寺さんへとMCのバトンが渡る。キーボードの前にセットされたマイクで、小野寺さんが少し落ち着いたトーンで話し始めた。
『庄本の生徒のみなさんは知っている人も多いと思いますけど、この曲は3年前にこの杜和祭で披露されたオリジナル曲です。あっ……そうそう、エリスさんはこの曲をかつて歌ったわが校伝説のOG、桐生美夏さんとも仲がいいって聞きましたよー? ホントですか?』
……おお。ここでも話題に出るのか、あの人。てかいつレジェンドになったんだ美夏さん。
『はい、すっごくなかよしです! 今ホームステイしている家の人で、わたしの遠い親戚で……日本語だとハトコ……?に当たります。わたしにとっては、ホントのお姉ちゃんみたいな人です!』
『えっ……はとこ? じゃあエリスさんって日本人の血も引いてるってことですか??』
『そうです! わたしのおじいちゃんが日本人なので、クォーターです!』
「ええー!?」と観覧席からのリアクション。その歓声は知ってましたと予定調和に思えるものも、マジでと本当に驚いてるものも両方が混じっていた。俺たち2年の中ではすでにかなり知られている話だが、そのほかの学年や中等部ではそうでもなかったということだろう。
この辺のやりとりは、あらかじめ用意していた台本に沿ったものだ。エリスを少しでも身近に生徒たちに感じてもらうための演出だと、司から聞かされていた。
と思ったのだが――――
『だから、日本語もとても上手なんですねー! それじゃあ、エリスさんが歌うこの曲のテーマは、何だか知ってます?』
『……? は、はい。片想い……ですよね? 男の子が女の子に向けた、ラブソング』
なぜか、エリスがわずかに戸惑ったように眉を寄せる。……? どうしたんだろうか。
『ええ、その通りです! それじゃあですね、エリスさんはもし日本語で告白されるとしたら、どんなセリフを言われたいですか?』
『え――――』
いきなりレールから脱線し、放り投げられた爆弾。
小野寺さんはニヤニヤと意地悪げな笑みを浮かべる。
ってか、突然何言ってんだあの子は!?
『あ、もちろんお相手は好きな人からですよー?』
『えっと……』
小野寺さんがさらに煽ると、困惑を隠せないエリスは一瞬言葉を詰まらせる。
俺も司に非難の目を向けたが、司は静かに首を振った。
すると、やがてエリスは覚悟を決めたように観衆へと目を向け、
『わたしはあいまいなニュアンスの日本語で言われても……きっとわかりません。だから――――』
どこまでも、彼女らしく目をそらさずに、しっかりとした口調で、
『だから、好きな人からは、まっすぐに「好き」って言ってほしいです――――』
瞬間、あの『遠い放課後』のギターのイントロが流れ始める。
×××
その空間は、まさに熱狂の渦だった。
ラブソングには似つかわしくない激しいピッキングで奏でられるギター。
よもやすると軽くなりかねない曲調に厚みを加える低音のベース。
リズミカルに刻んだビートが絶妙なアクセントを与えるドラム。
主旋律のサポートに徹しつつも、その高音が独特の寂しさも生み出すキーボード。
その力強くも切ないメロディに、幾百もの手拍子が合わさる。その天然のメトロノームが、生温い夏の空気を大きく震わせた。
彼女は、エリス・ランフォードは、そのスポットライトの中で、この極東の島国の言葉で、どこまでも歌う。
その歌声は、天の御使いのごとく煌めくソプラノ。まるで雲の上から降り注ぐ神秘のシャワーだ。
君に貸した教科書に書かれた落書き
言葉をどれだけ探してもぴったりなものは見つからない
交わした会話は嬉しさと空虚に満ちて
心に絡んだ方程式に解はない
いつだってその笑顔が眩しくて目を合わせられない
明るい君が隠してる弱音が聞きたくて
だけどその瞳が見つめるのは彼方の空で
教室の隅の誰かはずっとぼやけて映らない――――
学生が作ったとしか言い様のない拙くて青い歌詞も、エリスの口から紡がれた途端に心を打つ祝福の詩に生まれ変わる。
彼女の瞳の色と同じ翡翠色のサイリウムがリズムよく、規則正しく左右に揺れる。構えたスマホやカメラのフラッシュが閃光となって闇を裂く。その様は夜の海に反射して煌めく星々のようだ。
この数分間、ここにいる数多くの人が一つになっていた。
もちろん、そこに俺はいない。光輝くステージと対になるように、俺の周囲には闇と影しかない。
だけど―――――。
スマホを構える時間すら惜しかった。一秒でも長く。一瞬でも逸らすことなく。彼女を見つめ続ける。記憶のフィルムに、心のネガに焼き付ける。
いや、そんな意識さえいらないか。
彼女のこの充実感と幸福で満ち溢れた笑顔を忘れることなど、もうできるはずがない。
俺は主役どころか、端役ですらないけれど。
彼女の言の葉の一端にほんの少し登場しただけの、群衆の一人にすぎないけれど。
この光景を、忘れない。
永遠に忘れない―――――――。
~第3章 了~
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