第5話⑧ 天使と下界人
「違うって……どういうこと?」
「それは―――――」
改めて、台本を読んで思ったことがある。
やはり、俺はこのロミオという青年に、まったくといっていいほど感情移入できないということだ。
ロミオは美しいジュリエットに出会うなり、彼女の瞳を見つめ、やたら歯が浮くような台詞で愛を囁き、脇目もふらず真っ直ぐに想いをぶつけようとする。
だが、そんなことができる男なんてのは、相当な自信満々のナルシストか、よほど無鉄砲な馬鹿か、あるいは……これがこの作品における正解に近いと思うが、周囲の状況など一切無視できるくらい好きになってしまったか、のどれかだろう。
しかし、大概の人間はそうではないし、そうはなれない。
ましてや、俺のように弱くて情けない男は。
「悠斗……?」
その戸惑いが混ざったエリスの声を受けて、俺は自分より背が低いはずの彼女を見上げる。
そう、見つめるのではない。見上げるのだ。
俺と彼女は対等ではないから。
いつだって、彼女は眩しい。
太陽のようだ、と言えば響きは美しいかもしれないが、実際にはるか彼方の恒星に近づくことなど容易ではない。蝋の翼をもがれたイカロスのごとく。
俺は首を左右に振る。
「いや、そんな大した話じゃないさ。単に俺とロミオじゃ性格が違いすぎるなって思っただけだよ。ホント情熱的でストレートだよな」
「……なんだ、そういうこと。悠斗はもうちょっと、素直に感情を見せてくれるといいんだけどなー」
「別にそんなにムキになってるつもりはないんだけどな。実際、エリスは綺麗だと思うし。さっきも『否定はしない』って言っただろ?」
「うーん……、やっぱりなんか違うんだよねー……」
エリスは不服そうに唇を尖らせる。
……本当に嘘じゃないよ、エリス。俺は誰よりも君に目を奪われていたと思う。
ただ―――――。
ただ、これだけ美しく、神々しい少女に無心で見惚れていられるのは刹那の間というだけ。
我に返ってまず考えるのは、彼我の立ち位置の差。生まれ。育ち。性格。容姿。そして社会における身分。時間が経つにつれて夢から覚め、ありとあらゆる人間を構成する要素のレベルの違いを、嫌でも認識させられてしまう。
言うなれば、エリスはこの1年間だけ、天から舞い降りて下界に住むことを許された天使。日本昔話風に言えば、かぐや姫みたいなものだ。
もちろん、人種は違えど同じ地球に住む人類である以上、そんなことはありえないのだが、俺の心境としてはそれに近しいものがあった。
俺の回答に、むっとした表情も一瞬のことで、エリスはすぐに頬を緩めた。
「…‥でもよかった。今日は久しぶりに悠斗とたくさんお話ができて。楽しかったよ」
「へ?」
どうしたの突然? それどういうこと? と俺はエリスに聞き返す。
すると彼女は、むんと腰に手を当て、今度はぷくっと頬を膨らませた。
「だって最近の悠斗、葵や千秋とベッタリなんだもん。わたしは練習がどんどん忙しくなってるのに」
まあ練習自体はすごく楽しいんだけど、とエリスは付け加えた。
「いや、別にベッタリじゃないだろ。準備委員の仕事を一緒にしてるだけじゃんか。それに、定期的にエリスの練習だって見学させてもらってるし」
特に真岡は、いよいよ原稿がヤバくなってきたのか、準備委員への出席率が目に見えて落ちていた。最近は、仕事の半分は桐生とのペアになってしまっている。その二人との祭りの準備も、いよいよ煮詰まってきていて、余計な雑談なんかしてる暇もない。会社で働くってこんな感じなんだろうか……と思ってしまうくらいだ。
一方のエリスの演技も、素人目にもどんどん上達していた。本人のセンスや努力もあるし、西條先輩の指導もいいのだろう。それに、もともと感情を表に出すのが得意なエリスだ。演劇というものとの相性も良かったに違いない。
……まあ、主人公であるロミオ役が恭弥と並ぶサッカー部のイケメン野郎というのは腹立たしいのだが。運動部は忙しかったんじゃないのかよ。
「それでも羨ましいよ。一緒に学校生活での思い出作ろうよ、って悠斗に言ったの、わたしなのに」
思い出……か。
俺はまたしても、空にぽっかり浮かぶ満月を見上げる。
やがて、時が満ちれば彼女は天に帰る。
その時、下界の人間はその後ろ姿を、膝をつき、頭を垂れて見送るだけ。
そんな未来は、きっと避けられない。
ずっと、このままでいられることなんてない。
ならば、せめて。
「……エリスの劇の本番っていつだっけ?」
「え? 二日目の午後2時から体育館のステージだよ。やっぱ西條先輩ってこの学校じゃすごい人らしくて、一番人気の時間を押さえちゃったみたいなんだ」
「そっか……」
「……悠斗?」
「なあエリス」
エリスは「ん?」と可愛らしく首を傾げた。
「その劇が終わった後でいいからさ……」
せめて俺は、下界の案内役としての務めを果たそう。
「文化祭、一緒に回らないか? もちろん、あの時の約束とは……別でいいからさ」
俺にはロミオのような気の利いた台詞も、シェイクスピアのような洒落た言い回しもできないけど。
拙い言葉で伝えるのがやっとだけど。
「……うん!」
せめて、この天使の笑顔を陰らせないように。
第3章に続く。
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