第5話⑦ エリスとジュリエット
とある月の夜。橋の上にて。
一人の黒髪の少年は、人形のような愛らしい少女の佇む姿に、ただただ息を呑んで見惚れる。
その少女がこちらに振り向く。目が合った。
『あ……』
『あなたは……ひょっとして……』
少女は何かに気づいたように、その大きな瞳を見開く。
『その癖っ毛の黒い髪と優しそうな目……。あなたは……あの時の』
『……? え、えっと、あ、あの時?』
『……いいえ。何でもないわ。それよりあなた、私に何か用かしら?』
『……キ、キミニミトレテイタンダ……。ヒトミガアマリニキレイダッタカラ……』
「ストップ」
琴音が乾いた声で言った。
「……兄貴、棒読みすぎ」
「や、そんなこと言われてもな……。は、恥ずかしいし……」
言うまでもなく、ロミオ(日本人設定)とジュリエットの出会いのシーンであり、イントロダクションである。ただし、『再会』という真岡がアレンジした設定の。
最初のロミオの口説き文句のところで、早くも俺の羞恥メーターは振り切れていた。
「国語の朗読じゃないんだから。これじゃエリスさんの練習にならないでしょ」
「……でも、こんなキザなセリフ、素面で言えんだろ」
「いや、演劇なんだから素面でいたらダメでしょ。中途半端に照れが抜けてないのが余計にキモいんだけど」
延々とダメ出ししてくる琴音に、エリスが「まあまあ」と宥めに入った。
「あくまでわたしの練習なんだし、相手をしてくれるだけで充分だよ。悠斗が照れ屋なのは今に始まったことじゃないしね」
「……まあ、兄貴みたいのが役に入り込んだら、それはそれで気持ち悪いですけど」
「……おい」
だからキモいを連呼するのはやめろ。おまえみたいなズケズケした女子がいるから、世のセンシティブでデリケートな男子たちが心に深い傷を負い、異性に恐怖感と苦手意識を覚えるようになるんだ。
閑話休題。
まあ、そんなこんなで今日の読み合わせはひとまず終わり、時間はもう9時近くになっていた。玄関先でヒールを履いたエリスがくるりとこちらに振り返る。
「じゃあ悠斗、今日は付き合ってくれてありがとね!」
「……ああ。でも悪いな。ほとんど役に立てなくて」
「ううん。相手役がいるだけでも全然違ったよ。それに……」
「? それに?」
俺が聞き返すと、エリスはかすかに逡巡した様子を見せる。だが、やがて意を決したように顔を上げ、口を開こうとする。そのとき――――。
「……兄貴。エリスさんを家まで送ってあげなよ」
やや離れた場所にいた琴音が、俺にだけ聞こえるような小さな声で言った。
「へ? 送るも何もマスターの家はすぐそこ……」
すると、スタスタと俺に近づいた琴音は、ドライブシュートを放つくらいの勢いで膝をフルスイング。俺の脛にトゥーキックが直撃する。
「あいたっ!? いきなり何すんだ!?」
弁慶の泣き所を押さえ、涙目でその場にうずくまる俺に、妹のやけに冷たい声が降りかかった。
「……ホントアホなんだから」
×××
「……琴音のヤツ。痣になったらどうすんだ」
「あはは。琴音って悠斗にホントに厳しいよね」
「まったく、可愛い気のない妹だよな」
「そんなこと言っちゃって。悠斗ってば、琴音がわたしたちに気を遣ってくれたの、気づいたんでしょ? 優しい妹だと思うよ?」
「……ノーコメント」
「やっぱり、日本ってあったかいよね。まだ5月なのに、もう薄着で平気だもん」
「これからどんどん暑くなるぞ。日本の夏は……ってエリスは知ってるか。その日本の中でも、埼玉の北部は特に暑いからな」
「そうなの?」
「ああ。40度を超えることもある。日本一暑くなることも珍しくない」
「よ、40度……。わたしの国じゃ想像つかないよ……」
「だから、水分補給は怠らないこと。それと体調が悪くなったらすぐに美夏さんやマスターに言うように。あと日焼けも要注意な」
「うーん……心配してくれるのは嬉しいんだけど、ちょっと違うんだよねー」
エリスがホームステイしているマスターの家まではわずか数十メートル。だが、俺たちは何となく、すぐに足を向けずに他愛のない立ち話をしていた。最近、互いに忙しくて会話が減っていたからもしれない。
ふと空を見上げると、まん丸とした月が淡い光を放っている。頬を撫でる夜風も、もうかなり暖かくて心地よい。
同じようなことを考えていたのか、エリスも月に向けて目を細める。闇の中で映えるその金色の髪が春風でふわりと舞い上がった。なびく髪をその白魚のような手で押さえる仕草が艶っぽく、そして美しかった。
「……なんだか、今のエリス、ジュリエットみたいだな」
だから、そんな感想が思わず口をついた。
「え?」
「いや、さっき出会いのシーンをやったろ? まあ今回は劇だけど、もし映像化したとしたら、今のエリス、最初の橋の上のシーンにそのまま使えそうなくらいだなって思っただけ」
ただ綺麗なだけじゃない。その日本人ではない容姿はどこか現実味がなくて、ゆらゆらとした物語の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
我ながら、ちょっと慣れないことを口走っちまったかな、なんて思っていると、
「ふーん……。それってロミオみたいに、悠斗がわたしに見惚れてたってこと?」
エリスはクスリと意地の悪い笑みを浮かべた。でも、根が優しい彼女がそんな表情をしても、いまいち迫力がない。
それに対する俺の返答は。
「……まあ、否定はしないな」
そして、ストレートな表現を好むエリスの反応は。
「もう! またそういう言い方する! そこは素直に『うん、見惚れてた』でいいよね?」
ぷんすかと怒りを見せるエリス。予想通りのリアクションに、俺は思わず笑みがこぼれてしまった。
「……いや、悪かったよ。ただまあ、綺麗だと思ったのは事実だけど、ロミオと同じ心境かと言われると、ちょっと違うかもな」
「……え?」
『綺麗だと思った』と『ちょっと違う』。どちらがエリスにとって引っかかる言葉だったのか。
彼女は驚いた表情で、俺に視線を向けた。
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