第4話⑪ セピア色の写真

「えっと……悠斗、どういうことだろ?」

「さあ……?」


 意味深な笑みを浮かべてキッチンへと引っ込んでいった女将さんをよそに、俺たちは互いに首を捻る。だが店内をよく観察してみると、心当たりらしきものが見えてきた。


「ああいうのが関係あるのかもな」

「ああいうの?」


 俺は店の壁を指差す。そこには、この大学の学生たちの寄せ書きが壁中全面に貼られていた。各年の卒業生に加え、サークルやゼミなどのグループも。「ありがとう!」、「お世話になりました!」、「また食べに来ます!」等々、学生らしい文字があちらこちらに踊っている。


「わあ、すごーい!」


 席を立ち上がったエリスは、美術館の展示物でも見学するように、寄せ書きに順番に目を通していく。「あっ、この人大胆……!」と顔を赤らめたり、「えっと……この日本語なんて読むの……?」と首をきょとんと傾げたりと、エリスは表情をコロコロ変える。そして、そんな可愛らしい少女に目を奪われる男ども。どいつもこいつも、山盛りの定食やカレーを頬張るのを止め、彼女に見惚れている。


 ……エリスは見世物じゃねえんだけど。


 またしてもイライラが収まらない。さっきエリスに指摘されたように、俺はかなり嫉妬してしまっているらしい。おかしいな……。俺は気になる子がほかの男と仲良さそうにしていても、「ま、そんなもんだよな」とチクリと刺す胸の痛みを無視できるタイプなのに。


 意図せずともため息が漏れ出て、俺は彼女から視線を切る。すると、そこには寄せ書きと同じように学生たちが書き込んでいくと思われるノートが置いてあった。

 口直しにパラパラと中身をめくると、学生にありがちなテンションの高いメッセージがたくさん綴られていた。女子の書き込みなんかだと、結構な度合いでイラストも一緒に描かれていたりする。


 ……この手のノリ、苦手なんだよなー。


 陰キャであれば共感してくれる人間が多数派だと思うが、俺はこういう「思い出を残そうぜ!」的なイベントを避ける傾向にある。そもそも残しておきたいような記憶など学校生活ではあまりないし、一緒に盛り上がれるような友達もいない。自分の心境や気持ちをアウトプットするのも大の不得意分野だ。中学の卒業文集には、「一年間ありがとうございました」と何も言ってないに等しい無味乾燥なメッセージを残しただけだった(当然、それに対する返信もない)。


 過去の苦い思い出にふけりながらページをめくっていると、いつのまにか席に戻ってきていたエリスが、俺の手元を覗き込んだ。


「悠斗、何それ?」

「見るか?」


 俺はノートをエリスのほうに押し出す。「うん」と中身を読み始めたエリスは、すぐに「わあ!」と目を輝かせる。


「わたしもジュニアハイの時に友達とアルバムとか作ったよー。こういうのは日本でも同じなんだね」

「……そっか」


 やはりというか、エリスはそっちのタイプだったようだ。正しく青春をしている。これだけ明るくて性格が良くて可愛いんだから当然だ。


 そして俺は青春などしたことがない。これからできる気もしない。


「ねえ悠斗、わたしたちも……」

「はいよ、カツカレー二つ、お待ち!」


 エリスが何か言いかけたところで、店主のおじいさんが威勢のいい声でカウンター越しにカレーを差し出してきた。俺はエリスのぶんの皿を手に取って彼女に渡し、それから自分のぶんも受け取る。


「わあ、おいしそう!」

「ああ、うまそうだな。だけど……」


 ……何と言うか、山盛りである。カレーなのに、日本昔ばなしみたいに出てくるご飯みたいな見てくれである。カツも、大きいのが丸一枚乗っている感じだ。


「悠斗の、すごい量だね……」

「お、おお……」


 エリスが頼んだ小盛りですら、普通の店の並盛りくらいの量がある。まあ、普段の食事の風景を見ていても、エリスは別に小食ではなさそうなので、向こうは大丈夫だろうが……。


「ハッハッハッ! うちは学生がメインの店だからね。まずは量が第一さ!」

「お残しは厳禁だよ? 若いんだからね!」


 店主のおじいさんは豪快に笑い、女将さんはプレッシャーをかけてくる。こうやって客相手にも容赦ないのが、いかにも学生向けの店という感じだ。

 強大な相手カツカレーを前に、俺は息を呑む。


「……悠斗、平気?」

「……ああ、大丈夫だ。注文したからには食べ切ってみせるさ」


 戦地に赴く兵士のごとく、エリスにサムズアップしつつ決意表明する俺。フラグ乙! と突っ込まれることの請け合いのリアクションだが、個人的には回収するつもりはなかった。


 実際、提供した食べ物を残されることほど、店側が堪えることはない。俺もブラックキャットでバイトをしていて、マスターが作った料理やスイーツをほとんど手つかずのまま残されたりすると、えも言われぬ悲しい気分になる。「金払ってるんだから勝手だろ」と言われてしまえばその通りなのだが、店側からすればそんな簡単に割り切れるものではない。ただのバイトのウェイターである俺でさえそう感じるくらいなのだから、作った当人のダメージは想像に余りある。


 曲がりなりにも飲食業に携わる者として、ホストを傷つけるような真似をするわけにはいかないのだ。エリスにも、食べ物を粗末するような奴だとは思われたくない。外国人のほうが、飽食な日本人よりもその辺りは敏感だろうし。


「では、いただきます」


 俺は両手をしっかり合わせ、スプーンを手に取った。


 まずはカレーのルーを一口。すると、コクのある辛みが口の中に広がった。決して辛口というわけではないが、適度に刺激のある辛さがちょうどよい。

 続いてカツを賞味する。パリッと揚げられた衣のサクサク感が心地よく、凝縮された豚肉の強烈な旨味が舌と胃を活性化させていく。一般的なカレーよりも、とろみと粘り気のあるルーとの相性も抜群だ。


「うん、うまい。すごくうまい」


 脳内ではそれっぽくグルメ番組的な情報を垂れ流してみたが、メシの感想などこの一言で充分だろう。


 俺の感想にエリスも安心したのか、スプーンでその小さな口にカレーを運ぶ。そしてすぐに「うん、おいしい」とつぶやき、そのまま食べ始めた。


 そして―――――。


 ×××


「うぷっ……」

「悠斗、大丈夫?」

「……ああ、何とかな。……ごちそうさまです」


 俺はフラグをどうにか叩き折り、完食することに成功した。エリスが注いでくれた水を一気に飲み干す。最初はうまいうまいとスプーンが進んだが、正直最後のほうはかなりキツかった。まあ、元がうまいカレーだったから食べ切れたのだろうが……。体重が2キロくらい増えた気がするぞ。


「お粗末様。いやあ、さすが若いだけあるねー」


 女将さんがカラッと笑う。


「それじゃあ、完食してくれたご褒美だ。これを見てごらんよ」


 そう言うと、女将さんは俺とエリスに、大きく、そして古ぼけたアルバムを差し出してきた。表紙には、かすれた文字で「1960~1970」と西暦年が書かれていた。これは……。


「さすがに50年前だとちょっと探すのに苦労したけどね。そのページを開いてごらん」

「は、はい……」


 エリスが少し緊張した様子で付箋がついたページを開くと、そこには、この大学の学生たちが写った写真がたくさん貼られていた。ちょうどカメラの世代の切り替わりの時期だったのか、白黒写真とカラー写真が混在している。

 写っているのは、友人同士のグループやカップルが多い。晴れ着やスーツに身を包んでいる人が多いのを見るに、卒業シーズンに撮られたものが大半のようだ。


 エリスは忙しなくアルバムの一つ一つの写真を確かめていく。逸る気持ちを抑えられないのだろう。ここまで来れば、誰の写真があるかなど考えるまでもない。

 そして、やがて一つのセピア色の写真に目を留めると、その大きな瞳を見開き、かすれるような声でつぶやいた。


「おばあちゃん……」


 そこには、若き日のエリスの祖父母が寄り添うように写っていた。

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