第3話② 桐生千秋 その2

 “悠君―――――”


 懐かしい響きが俺の鼓膜を震わせる。

 

 本当に、久しぶりに聞いた。

 小さい頃、こいつは俺のことをずっとそう呼んでいた。そして、俺もまた”千秋”と普通に下の名前で呼んでいた。

 そうでなくなったのはいつからだったか。

 確か中学の頃、学校で周囲の目線が気になって互いに苗字で呼び合うようになり、次第に学校の外でも名前で呼ぶことがなくなっていった気がする。


 驚愕のあまり、俺がぽかーんとアホ面で桐生を見ていると、彼女は「こほん」とわざとらしい咳払いする。わずかに顔を赤くしていた。


「な、何でもないわ。そ、それよりお姉ちゃん、おと……マスターは?」

「いやいや、そこは『お父さん』でいいでしょうよ。……ちょっと待って。おーい父さーん! 愛しの次女が帰ってきたよ―!」

「ちょ、ちょっとやめてよ!?」


 手を口に添えて声を張り上げる美夏さんを、桐生は肩を揺さぶりながら止めていた。照れてるわけでなくガチで嫌そうにしている。それなりの事情があるとはいえ、マスター気の毒すぎる……。


 桐生姉妹が仲良さげ(?)にくんずほぐれつしていると、このお店の主、マスターこと桐生五郎さんがキッチンから顔を出した。


「おう、千秋。元気にしてたか?」


 久しぶりに見る次女の姿に、マスターは目を細める。


「え……うん、まあそこそこね。お父さんに心配されるようなことは何もないわ」


 反対に、桐生は決まりが悪そうに、だが、それでいてマスターの気遣いを一蹴する。マスターはブラックコーヒーを一気飲みでもしたかのような苦い顔をしていた。

 まあ、それはともかく。

 

「……じゃあ、久しぶりの家族水入らずみたいなんで、俺は帰ります。食事も部屋で済ませますから。エリスはどうする? こっちで食ってくか? 簡単な物なら俺が作るけど」

「うん、そうだね。せっかくの家族のだんらんを邪魔するのも悪いし、お願いするよ」


 俺は桐生家のためを思い、かつエリスも部外者一人じゃ居心地悪いだろうと心配してそう提案したのだが、なぜか桐生がシラっとした冷えた視線を俺にぶつけてきた。


「……何、柏崎君。どさくさに紛れてエリスを部屋に連れ込む気? 本当、エリスには随分と積極的なのね」

「いや、普通に琴音もいるんだが……」

 

 何かあさっての方向の心配をされている。いや、確かに超絶美少女のエリスの心配をするのはわかるが、相手がこの俺だぞ? そんな度胸などあるはずがない。桐生だって知ってるだろうに。つーか、本当にそんなつもりはまったくなかったのに、おまえが余計なこと言うからかえって意識しちゃうじゃん……。


 肝心のエリスは、「悠斗のお料理かー♪」と、お子様ランチを待つ子どもみたいに邪気ゼロの表情を浮かべていた。

 美夏さんは美夏さんで「いやあ、さっきの真岡ちゃんといい、こりゃ面白くなってきたねえー」と、意味不明なことをぶつぶつ言いながら、こちらは邪気8割くらいの意地悪い笑みを湛えていた。……いや、マジでなぜに真岡?


 いや、これどうすりゃいいの……。

 俺の頭痛が痛く(ダブルミーニングは俺の心象表現)なってきたところで、マスターの鶴の一声が揺れに揺れている情勢を決めた。


「せっかくってことなら、悠斗。おまえも今日はここでメシ食っていけ。琴音も呼んでな。久しぶりの桐生家、柏崎家の合同夕食会だ」



   ×××


 というわけで、俺と琴音は桐生家の食卓にお呼ばれされることになった。


 とはいっても、親父たちが転勤してマスターのアパートに住むようなってから、週に何回かはマスターの家でメシをご馳走になっているので、別にかしこまるほどのことではない。


 どちらかといえば、客人なのは桐生のほうだ。今日はせっかくの機会ということで、マスターの自宅ではなく、そのままブラックキャット内で軽いディナーをすることになった。


「千秋姉、そういえば今日はなんで帰ってきたの?」


 配膳が終わり、全員で「いただきます」と手を合わせるなり、琴音が聞いた。

 今日の献立は、マスター特製のデミグラスソースが絶品のハンバーグ。俺や琴音はもちろん、エリスもすぐメロメロになった鉄板メニューである。


 桐生もまた、そのハンバーグに懐かしそうな表情を浮かべている。マスターの手料理を口にするのは本当に久しぶりなのだろう。

 いや、このシーンだけ切り取れば結構なエモい場面なのだが、彼女の母親である春香さんの料理の腕を考えると、そうは言い切れないのが微妙なところだ。

 桐生はそのハンバーグをナイフで丁寧に切り分けながら答えた。外見は今時の女子高生だが、やたら几帳面なのは昔と変わっていない。


「進路の相談……いや、報告ね。連休明けには三者面談があるから。本当はお母さんと一緒に出たかったんだけど、お母さん、今アメリカの研究所に出張中なのよ。だから、すごく嫌だったんだけど……仕方なく、ね」


 そう言って、桐生はじっとりとした眼差しをマスターに向ける。すごく、を口でも強調したあたり本当に嫌そうである。当のマスターは「うう……」とかなりショックを受けていた。


「へー、そうなんだ。というか、まだ2年生なのにもう進路決めてるの?」

「何言ってんだ。高校は文理の選択があるんだぞ。あんまりモタモタしてられないんだよ」

「いや、兄貴には聞いてないんだけど」


 マスターに続き、俺も身内からディスられる。基本的に、柏崎家も桐生家も、男性の立場が弱い一家だ。小さい頃、両家でキャンプに遊びに行ったときなんかは、親父とマスターが散々こき使われていたのを思い出す。

 居場所に乏しい者同士、俺とマスターは目を合わせて互いに頷く。以心伝心とはこういう時にこそ発揮するのだろう。


「私は理系にするつもり。国立か私立かはまだ決めてないんだけどね」

「へえー、やっぱり東京?」

「……ううん。そうとは限らない、かも」


 なぜか、桐生はその質問には歯切れが悪くなった。まあ、志望校を現時点ではっきりさせているヤツは多くないだろうし、大した意味はないか。

 桐生は俺にもその話題を振ってきた。


「ゆ……柏崎君は、文系と理系どっちにするかもう決めたの?」

「ん? ああ、俺も理系の予定だけど」

「……そうなのね。でも、柏崎君の成績を考えれば当然か」

「悠斗、頭いいもんね!」

「ま、まあな……」

 

 桐生やエリスは俺の理系科目の成績の良さからそう思ってくれたようだが、実のところそれが一番の理由ではない。

 そんな俺の心理を読んだかのごとく、琴音が言った。


「てか、千秋姉が理系っていがーい。絶対、オシャレな都内の文系の大学に行くと思ってたのに。兄貴の理系はイメージまんまだけど」


 そ、れ、な!

 

 本来ならば琴音の偏見に怒るべきところだが、まさにそれが、俺が理系を選ぶ理由なのだから反論のしようがない。


 そのオシャレな文系大学生代表、美夏さんの生活を間近で見ていると、俺には絶対に無理だとわかる。異性とのコンパや合コンに明け暮れ、酔っ払ったら意味もなく「ウェーイwww」と叫び、テストでは自分の学力よりも過去問を手に入れられる交友範囲とコミュ力が必要とされ、就活では学業よりもサークルやボランティア活動を大人相手に意識高く自慢げに語ることができなくてはならない―――(※あくまで個人の感想です)。


 うん、陰キャで非リアな俺には死んでも……いや、転生したとしても不可能だ。

 その点、理系なら根暗なヤツでも、コツコツと頑張れば報われるイメージがある(あくまでもイメージ)。実験やレポートも多いだろうから、単純なカンニング力があるヤツが得をするわけでもあるまい。


 でも、そこまで考えて―――――ふと気づいてしまった。


 俺はまさに“空気”や“雰囲気”といった曖昧模糊としたものに身を任せて、自分の進路さえ決めてしまおうとしていることに。

 自分のやりたいことでも、得意とすることでもなく、ただ、少しでも自分が排除されなさそうな集団を求めて将来の選択をしかけていることに。


 ハッ、情けねえ――――。


 思わず自嘲の笑みが漏れた。

 エリスにあんなカッコつけた宣言をしておきながら、俺はどこまでも弱いヤツだった。

 日本の集団が持つ同調圧力に唾を吐きかけながら、誰よりもそれに雁字搦がんじがらめにされている。


 こんなヘタレな俺を知られたら、エリスも愛想尽かすかもな―――――。


 楽しそうに談笑する琴音たちを見ながら、俺は一人で勝手に落ち込み、深いため息をついた。

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