第2話⑤ 宣戦布告?

 俺は、なぜか顔をそむけてしまったエリスの元に歩み寄った。


「どうしたんだ、エリス?」


 俺が声をかけると、エリスはわずかに肩を跳ね上げ、緩慢な動作で再びこちらに向く。


「う、ううん、ちょっと考え事してただけ。ごめんね、悠斗。仕事中なのに」

「考え事?」


 何だか、表情がらしくなければ、仕草も、返答もらしくない。

 エリスは人と話すときは必ず目を合わせ、「誰が、何を、どうした」をハッキリと述べる。それが彼女たちの国のマナーだからだ。

 だが、今のエリスは、おぼつかない様子で自らの身を守るようにトレイを抱き締めていた。

 俺は急に心配になる。


「……大丈夫か? 慣れない仕事で疲れたんじゃないか?」


 確かにエリスは、接客の仕事自体は経験があるのかもしれない。だが、ここで使われるのはすべて日本語だ。さっきの真岡じゃないが、曖昧なニュアンスだけで会話や注文をしてくる客も少なくない。おまけに、その物珍しさから、エリスはお客さんたちにひっきりなしに話しかけられていた。いくら明るい性格とはいえ、気疲れしてしまっても仕方がない。


「もう忙しさのピークは過ぎたし、あとは俺と美夏さんだけ何とかなる。休んでてもいいぞ?」


 俺が重ねて聞くと、エリスは小さく首を振った。


「ホ、ホントに違うの。ただ……」


 エリスは一体どうしたことか、奥の席にいる真岡にチラリと視線を移す。

 当の真岡は、こちらには一切に気づくことなく、腕を組みながら目をじっと閉じていた。どうやら創り上げた妄想……じゃなかった、想像の世界に入り込んでいるようだ。

 そういやエリス、さっきも俺と真岡をじっと見てたな……。

 その理由を問おうとしたところで、その前に美夏さんが「悠斗」と俺を呼び止めた。


「悪いね、悠斗。エリスには、あたしがちょーっと日本語で難しい話しちゃってさ。少し戸惑ってるだけだよ。別に仕事で何かあったわけじゃないから、心配しなくていいよ」

「え? でも……」

「と、に、か、く! エリスは大丈夫だから。あんたは残りの仕事を片付けちゃいなさい」


 美夏さんの有無を言わせぬ口調に、俺はこれ以上立ち入れそうになかった。こうなったら引き下がるしかない。でもまあ、美夏さんがここまで言うのなら本当にエリスは大丈夫なんだろう。正直、今の言葉は方便にしか聞こえなかったけど。


「……わかりました。だけどエリス、本当に大変だったらちゃんと言ってくれよ? 俺もできるだけフォローするから」


 俺がもう一度念押しすると、


「……うん、ありがとう、悠斗! そのときはお願いするね」


 ようやく、エリスは笑顔を見せてくれた。俺もホッと胸を撫で下ろす。

 うん、やっぱりエリスには笑った表情が良く似合うな。


「うーん、気遣いはできてるんだけどねえ、この子」


 理由はよくわからないが、美夏さんは俺を見ながら微苦笑を浮かべていた。



  ×××


 そして時刻は18時前。閉店も近づき、客足も徐々に少なくなっていく。ブラックキャットは純喫茶なので、夜間の営業はしていないのだ。


「おつりは350円になります。ありがとうございました!」


 俺が見守るなか、すっかり会計に慣れたエリスがおつりを手渡す。


「ありがとう。コーヒー、美味しかったよ」


 小銭を受け取った壮年の男性客が優しく礼を言いながら退店すると、ホールに残っている客はあと一人だけとなった。


 やっぱりこうなっちまったか……。

 俺はその客に近づき、慇懃に声をかける。


「お客様。申し訳ありません、そろそろ閉店のお時間でございます」


 だが、その艶やかな黒髪の少女は、俺の声を無視して一心不乱にキーボードを叩き続けている。

 こんにゃろう。


「……真岡、いい加減にしてくれ」


 仕方なく、俺は彼女の肩をつついた。……持っていたトレイで。

 陰キャの俺に、女子相手にボディタッチする勇気はない。


「え? あ、もうこんな時間か」


 上半身をヤジロベーみたいに揺らされた真岡は、やっと現実世界に帰還したようだ。


「長居するなら追加で注文してくれって言っただろ? 900円で4時間も粘りやがって」

「……集中してたんだからしょうがないだろ。あたし、一度世界に入り込むと周りが見えなくなるんだよ」


 そりゃ知ってるけどさ。だからああいうのを生み出せるんだろうし。


「じゃあ、次は最初にたくさん注文しろよな。この店は慈善事業じゃないんだ。金払いの悪い客にサービスはしないぞ」

「……はいはい。相変わらずバイトのくせに商売熱心なヤツだな。社畜の才能があるんじゃないか?」

「…………」


 ホント、普段は無口のくせに、変なところで口が減らない女だ。というか、そう思うんだったらちゃんと売上に貢献しろ。あと、俺に社畜の才能はない。……ないはずだ。


「とにかく、今日はもう店じまいだ。会計してくれ」


 うんざりした俺が早くしろと催促すると、真岡は渋々とレシートを持って立ち上がり、店の出入口のところにあるレジに向かう。

 そして、今レジに立っているのはエリスだ。

 エリスと真岡、二人はレジカウンターを挟んで向かい合う。俺も、エリスのレジのチェックのためにカウンターに入った。

 

 そこで、俺は違和感を覚えた。

 どういうわけか、二人の間に妙な緊張感が漂っているような気がする。真岡のしかめっ面はいつものことだが、誰にでもフレンドリーなはずのエリスまでもが、心なしか表情が硬いような……。


 エリスは真岡からレシートを受けると、「900円になります」と、らしくないフラットな声で告げる。一方の真岡は、「ん」と返事ともつかないような返事をし、スマホを差し出していた。

 「ピッ」とバーコードを読み込む電子音だけが店内に響く。

 何だか、胃が痛い。


 おかしい……。何でこんなに空気が重いんだ? この二人、初対面のはずだよな?

 特にエリスが変だ。さっきからチラチラと真岡のことを窺っていたことからして、彼女がうちの学校の生徒ということには気づいた可能性が高い。にもかかわらず、真岡には淡々と接していた。普段のエリスなら、明るく自己紹介くらいしてもおかしくないだろうに。


 それからしばらく(あくまで俺の体感であって実際は数秒だったのかしれない)、エリスと真岡は互いに視線を交錯させていたが、やがて真岡が「ごちそうさま」とだけ言い、自動ドアの前に立つ。

 そしてドアが開くなり、こちらへ振り返った。


「……柏崎」

「ん?」

「また、来るね」


 真岡もまた、らしくない女の子っぽい口調で俺に微笑みかける。そしてわずかにエリスを一瞥すると、くるりと背中を向けて去っていった。

 

 真岡の後ろ姿をやけに真剣な表情で見送ったエリスは、小さくを息を吐いてから俺へと視線を向けると、やがて見慣れた明るい笑みを見せる。


「お疲れさま、悠斗。今日は仕事、たくさん教えてくれてありがとう」

「……あ、ああ。といっても、エリスはすごく優秀だったから、俺が教えることなんてほとんどなかったけどな」

「えへへ、そうでしょ。結構自信あったんだよね」


 エリスは胸を張る。素直に礼を言いつつも、謙遜はしないのがエリスらしい。

 ……というか、やっといつものエリスを見た気がする。

 俺も安堵した。今日のエリスは様子がおかしい場面が多かったから。


「ああ、すごいよな、本当に。でも、今日は何だかんだで疲れただろ? 明日は定休日だからさ、ゆっくり休もうぜ?」

「あ、それなんだけどね、悠斗。もしよかったら明日わたしと―――――」


 エリスがそう言いかけたところで―――


「あら、仲がいいのね、二人とも。またデートの約束?」

「え?」


 その、聞き覚えのある声にエリスが振り返る。

 そこには、この長い一日の最後の来訪者が立っていた。


「ここで会うのは久しぶりね。……柏崎君」


 俺とエリスのクラスメイトであり、桐生美夏の妹であり、そしてもう疎遠になってしまった俺のかつての幼なじみである――――。


「桐生……」


 桐生千秋ちあきが、そこにいた。

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