8 「引っ叩くぞ貴様」

「なぁシオン。ちょっと聞きたいんだが」

「む、何だ?」


 後日。

 俺の部屋でソファを占拠し、例の本を読んでいたシオンに向かって声を掛けていた。もはや何時もの光景と化した今もなお、その読了率は着実に進んでいるようで、右綴じの本の重心は右側にだいぶ傾いている。


「キールに聞いたら、自分じゃ俺を元の世界に帰すのは不可能だって言われてさ。

 ってことは、いくら無理なんだよな?」


 誇張した言い方になっているのはもちろんわざとだ。

 普通に話した所でろくな返事が来ないのは分かり切っているため、あえて挑発的な物言いで尋ねていた。


「何だと。貴様、魔王たるこの余に出来ぬ事があるとでも?」


 目論み通り、これに乗ってきた返答を聞いて内心ガッツポーズを取る。

 重厚な音を立てて本を閉じたシオンはテーブル上にそれを投げ置き、腕を組んで俺を睨むように視線を細めた。


「だってキールは、無数に散らばる塵の中から一つだけを掴むようなもんだ、って言ってたくらいだぜ?」

「愚か者。あんな使い魔と余を同列に語るでないわ」


 キールの言い分をそのままに告げると、シオンはこちらを見やったまま嘲るように鼻を鳴らす。


「一度行き来の叶った場所であれば、もはや問題もなかろう」

「まじか」

「うむ。礼ならあやつキールにでも言うがよい。何せ、実際道を作ったのは奴なのだからな」


 これはもしかして、キールがコツを教えずとも既に理解しているのでは。


「そもそも奴に出来て余に出来ぬはずが無い」

「やっぱ理屈とか分かってねぇだろお前」


 若干、というより明らかに面白く無さそうな面構えになった様子を見るに、どうやら自身の魔力を道標にされていた事にすらまだ気付いていないらしい。


「……今度キールが転移のコツとか教えてくれるってよ」

「断る。転移なぞ……そう、ああして、こうすれば出来るのだ」

「子供かお前は」

「余は魔王だ何度も言わすな戯けが」

「中身の事言ってんだよ」


 あくまでもキールの世話にはなりたくないとでも言いたげに駄々をこねるシオンだった。実際見た目に依らずかなり面倒見の良い奴だと思うんだけど、一体何が気に食わないんだか。


「大体、あやつの言い方はまどろっこしくて好かんのだ」

「そうか? 結構分かり易かったけど」

「余は習うより慣れろ派だからな。くく、いわゆる天才肌というヤツよ」

「それは特別胸張って言う台詞でも無いなぁ」


 誇らしげに上半身を反らしたシオンに溜息をして応え、ズレてきた会話の流れを正そうと話を続ける。


「まぁお前がそういうのなら出来るんだろうさ。

 それで、【俺は誰だ?】」


 ……あれ? 今喋ったのは俺か?

 こんな脈絡の無い台詞を言うつもりじゃなかったはずなんだが。


「何だ貴様いきなり。ついぞ頭が可怪しくなったか」


 シオンもそんな俺の発言に訝しんでいる様子。


「そんな訳あるか。俺が言いたかったのは【俺は一村一樹】」


 ……この口は何故に突然自己紹介を始めたのか。


「いや待てなんか口が勝手に、【歳は二十四で独身。生まれは日本、しがないサラリーマンだ】」


 えぇ、何だこれ気持ち悪い。喉仏が意思に反して勝手に動くんだけど。


「【童貞ではない】……いやいや待て待てっ、そうだけどそうじゃないっ」

「あぁ、なるほど」

「何勝手に納得してんだよ!? 【ここだけの話、お前をエロい目で】──ぬおおおおッ! どうなってんだこの口はァ!?」


 歯が鳴る程に無理やり顎を閉じてそれ以上の口答えを封鎖し、訳の分からぬ事態に頭を抱えた。やべぇシオンがすげぇ目で俺を見てる。こえぇ。


「……ふん。まぁ余の美貌をもってすれば、貴様が盛るのも仕方なかろう」

「盛る言うな」


 挙げ句溜息混じりに返された哀れみの言葉に、羞恥心から顔が熱くなってくる。

 いやまぁ、思ってなかった訳じゃないけども……! こないだの寝姿を見て劣情が再燃しただなんて、頭じゃ考えても口に出さなかっただけで。

 それにしたって何故に今それを声帯に乗せてしまったのか理解に苦しむ。当然ながらあんな発言の数々は、俺の意図する物じゃないはずなんだ。


「くく、そんなに赤くなるな。今回は聞かなかった事にしておいてやる。

 ──なぁ? 


 これ以上の失言を防ぐべく、必死に口元を抑える俺を見て苦笑しつつ、シオンは誰にともなく虚空へと呼び掛けた。


「バレちゃってたのね」


 ともすれば、俺の隣に一人の見目麗しい桃髪の美女が、部屋の風景から浮き上がるように出現した。

 シオンのドレス姿より際どい衣装は濃紺のの色合いで、大きく開かれた胸元と太腿から先へ続くスリットが非常に艶めかしい。

 余りの近さに驚いて身じろぐも、女の腕はしっかりと俺の腕に絡め取られていて離れる事が出来ない。加えて彼女を認識した瞬間から、吸い付くように柔らかな肌とこの腕に密着する豊満な弾力が、俺の理性にダイレクトアタックを仕掛けている。


「人間の男を独り占めだなんて、魔王様も隅に置けないわねぇ?」


 艶っぽい喋り方でシオンに笑みを浮かべた女は、空いた指先で俺の首元を撫でてくる。それだけで堪えようのない刺激が全身に伝わり、快楽に伴う鳥肌が立ち上がっていく。

 リリスパインと呼ばれていたが、この女はもしかしなくても、あの種族か。


「余の物を独り占めしようが貴様の知ったことではあるまい。いいから其奴から疾く離れよ」


 シオンはこの様に眉をひそめたかと思いきや、軽蔑的な視線すら浮かべてこちらを見ている。


「あら、ダメじゃない。せっかくの綺麗なお顔をそんなに歪ませちゃあ。

 私も混ぜてよ。どうせなら、三人で遊びましょう?」

「……まったく。貴様と言い奴と言い、遊ばせておく期間が些か長過ぎたようだな」


 リリスパインがその変化を愉しむように言葉を並べていけば、呆れたと言わんばかりにシオンが頭を振った。


「なぁリリスパインよ。


 突如として、急激に室温が下がったような感覚に見舞われる。更に全身に感じる嫌な悪寒と共に、この身に纏う空気が静電気でも孕んだかのように肌を刺激し始めた。

 見れば少しだけ顎を上げているシオンの目は据わっており、こちら側を冷ややかな視線で見下ろしている。

 口調こそ淡々としているが、これはどう見ても怒ってないかね。だってほら、目元からあんなドス黒い瘴気っぽいのまで垂れ流してるし。


「ちょ、ちょっと! そんなに怒らなくても良いじゃないのっ!?」


 それに気圧されたのは俺だけじゃなかったらしく、リリスパインは慌てた素振りでようやく俺から身体を離してくれた。途端に軽くなった腕周りへ一抹の寂しさを覚えながらも、ひとまず開放された事に安堵の息を吐く。


「ふん。四の五の言わずにさっさと離れれば良かったのだ」


 俺から離れるリリスパインの姿を目だけで追って確認したシオンは、やがて目元に瘴気を収めていきながら鼻を鳴らす。


 リリスパインの容姿を改めて見てみれば、ひと目でシオンに劣らずの美人であると判断出来よう。身長は俺と同じか少し高いくらい。その身長差と肉付きの良いスタイルのおかげか、妖艶さという意味合いではむしろこちらの方がシオンより上回って見える。

 頭部の左右には短めの角がそれぞれ伸びており、背中からはコウモリに近い二枚羽が生えている。また、尻辺りから伸びる細長い尾は先端がハート型に膨らんでいた。

 彼女の見た目から、先程脳内に浮かび上がった種族名を思い出す。というかここまで来れば、この認識でもう間違いないだろう。


 サキュバス。

 夢魔、或いは淫魔とも言われる女型のモンスター。主に男性の夢の中に現れては誘惑し、性行為をして精気を吸い取り、最終的に対象者を死に至らしめる。

 まぁ、言ってしまえばゲームやアニメとかでよく見ていた、その妖艶たる美貌で男を虜にする18禁的なヤツだこいつ。


 そんな事を考えながらリリスパインの姿を見ていれば、視線に気付いた彼女はこちらに向かい、蠱惑的な表情を浮かべて唇の周りを舌でなぞった。

 その妖しく濡れ上がる唇を見て、思わず生唾を飲み込んでしまう。


「……貴様もだこの戯けが。そのみっともない姿を余の前で晒すでないわ」


 しかし悶々とし始めた思考を遮るよう投げられたシオンの台詞に、俺はいつの間にか前屈み気味に陥っていた姿勢を誤魔化しながら、大きく咳払いを決める。


「こ、これはだな。男の性分というか本能というかっ、【エロい身体してんなぁって思って】仕方なくだなぁあああっ!? 何だってんだよまじで!?」


 またしても口を衝いて出て来た意図しない言葉に咄嗟に腕を上げ、半ば叩きつけるように口元を抑えた。


「それこそ仕方なかろう。人間の貴様では其奴の”誘惑”に抵抗など出来もしまい」

「……ってことはお前、やっぱりサキュバスなのか?」


 その単語をもっていよいよ確信を得た俺は顔をしかめ、シオンに続いて視線を横に投げる。すると当人は悪びれる様子も見せず、むしろそれを象徴するかのように色っぽい笑みを湛えた。


「うふふ。よろしくね、人間さん?」


 これに肯定した訳でもなく、しかし彼女はそう言って俺にウインクをしてみせる。それを受けただけで足取りが覚束なくなり、頭の中身がふわりと蕩けそうな感覚に陥ってしまう。


「……おいリリスパイン。貴様のは、此奴には禁止だ」

「いっ!? いてぇって! だからヒールで刺すな馬鹿ッあだだだっ」


 ともすれば、太腿へ与えられた刺激で俺の意識は強引に目を覚まさせられる。こちらの訴えに腕を組んだまま脚を引き戻したシオンは、どこか不機嫌そうに本日何度目かの鼻息を吐いた。


「あらぁ、それはヤキモチかしら?」


 そんなやり取りを見て、リリスパインはニヤついた表情を隠さずシオンに言えば。


「そんな訳あるか。これは躾だ」


 またしても鼻先から空気を短く吐き出したシオンは、リリスパインの台詞をあっさりと切り捨てた。せめてもう少しこう、可愛げのある反応を見せてくれても良いんじゃないかね。


「噛み付くぞちくしょう」

「ほう? まだ躾が足らないと申すか貴様」

「足上げんなパンツ見えてんぞ」

「ふん、貴様如きに見られて減るような物でもあるまい」

「お前が女として損してるつってんだよ」


 どうにもこっちの世界に来てから、何時ぞやに俺が考えていた拾った子犬云々の立場が逆転している気がしてならない。こんな言い合い自体はいつも通りのはずなんだけどな。


「……ふふっ。貴方達、なかなか面白い関係ね」


 リリスパインはそんなやり取りを微笑ましそうに眺めていたが。


「こういうのを何て言うのかしら? ……痴話喧嘩? 夫婦喧嘩?」


 人差し指を唇に当てて何やら考える素振りを見せたかと思えば、事もあろうにそんな例えを持ち出す。

 それを聞いてピタリと口論を止めた俺達は、彼女へ同時にしかめっ面を向けて無言の抵抗をした後、再びその顔を見合わせた。


「ただの口喧嘩に余計なモン付与すんな。犬も食わねぇよこんなもん」

「ふっ。その場合、犬は貴様だがな。ほれ、飼い主にお手でもするがよい」

「するか馬鹿。ったく、飼い主がアホだと苦労するよ。なぁリリスパイン?」

「わ、私に振らないでくれるかしら?」


 さすがに主に対してそこまで無礼になり切れなかったらしく、突然の振りにもリリスパインは顔を若干引き攣らせるだけに留め、これに答えたのだった。


******


「──コホン……改めまして。

 魔王様の臣下が一人、”色欲の権化”リリスパイン。南方より帰還致しましたわ」


 場所を移し大広間にて。

 リリスパインは玉座に座るシオンへ向かってひざまずき、報告を成していた。


「うむ、ご苦労であった。おもてを上げて楽にせよ」


 頷いて答えたシオンがそう促すとリリスパインはゆっくりと立ち上がり、片肘を抱くような立ち姿勢を取る。


「さて。では紹介してやろう」

「あっ、やっぱりその流れ?」

「当たり前だろう」


 玉座の隣で手持ち無沙汰気味にその流れを眺めていた俺へ、シオンが続けてきた。


「其奴は古来より我ら魔王に仕えている淫魔でな。貴様が毎度言っていた、四天王とやらに該当する輩の一人だ」

「やっぱりサキュバスなのな」


 ようやく明言された種族名に頭をスッキリさせていると、シオンの紹介を受けたリリスパインは俺に向かって再びウインクをしてくる。


「ちなみに其奴の一言一句、或いは一挙一動をまともに受けてならんぞ。貴様如き人間ではたちまち魅了され、傀儡と化してしまうからな」

「【いちいち仕草がエロ可愛いんだよなぁ】……んんっ! この口はそういう事か……」


 咳払いで誤魔化しながらも、この訳の分からぬ口振りにもようやく納得することが出来た。

 つまりは俺はあの時から既に、リリスパインの術中に掛かっていたという事になる。意思に反してに口を衝いて出ていた言葉の数々は、彼女が情報を得るためにそう仕向けていたんだろう。


「うーん。私としては、完全に掛からないのが不思議なんだけど。

 普通ならそのまま、私の玩具になっていても可怪しくないのよ?」


 何やら不穏な台詞を残しつつ、リリスパインは興味深そうな面持ちで俺を見つめてくる。シオンに言われた手前すぐにそっぽを向いて目を反らしたが、途端に内から湧き上がる熱によって身体を浮つかせてしまった。


「此奴には少しばかり余の魔力が入っているのでな。ある程度の耐性は勝手に出来てよう」

「えっ、それって大丈夫なの?」

「うむ。見ての通りピンピンしとる」

「……へぇ、魔王様の魔力をただの人間が……ますます興味が湧いてきたわ」


 ヒールの鳴る音がこちらに近付いてくれば、どうやらリリスパインが俺の元に寄ってきた模様。次第に花の蜜のような、甘い香りが鼻腔に漂ってくる。


「人間さん? 改めて、よろしくお願いするわね?」


 やがて直ぐ近くで足音が止むと、明後日の方を向く俺の視界に入り込むように腰を折ったリリスパインが上目遣いに覗き込んできた。大人びた風貌らしからぬ小悪魔的な仕草に、図らずとも鼻の穴が開くのが分かる。

 ちくしょうシオンめ。こんなの、見聞きするなって方が無理だろ。


「……おぅ、よろしくな」

「うふふ、そんなに警戒しなくても良いわよ。魔王様の前ではなるべく、力を抑えてあげるから」


 身体を捻って再度リリスパインの姿を視界から消すと、彼女は小さく吹き出して答えてくれた。

 それを聞いて幾分安堵した俺は、覚悟を決めてリリスパインへと向き直る。


「……はぁ。そうしてくれると助かる。悪かったな、そっけない態度を取っちまって……【続きはベッドの上で】っておいィ!?」

「あらやだ。いざ抑えるって言っても案外難しいわねぇ」


 しかし相変わらず勝手に出てくる言葉に声を荒らげれば、リリスパインは意地悪な笑みを浮かべ、わざとらしく舌先を見せる。


「やれやれ。まぁ其奴の場合、意識せずとも”誘惑”による強力な作用が身体から滲み出ておるからな」

「なにそれタチわる……あぁ、だから俺ら以外誰も居ないのか」


 今更ながらこの大広間には現在、俺とシオン、そしてリリスパインの三人しか居ない。

 てっきりシオンがリベンジと称し、俺を紹介したいが為にわざわざこの場所を選んだのだとばかりに思っていたが、今思えば他の魔族連中は、自身が魅了されてしまう事を分かっていた上で顔を出さないだけなのかも知れないな。


「お前にその作用は効かないのか?」

「当然だ。余を誰だと思っておる」


 こちらの疑念をきっぱりと切り捨てたシオンは、そのまま蔑むような視線を投げ掛けてきた。


「そもそもリリスパインの誘惑は精神的な作用だからな。意思や魔力の強弱がその効果に直結しておる」

「それはつまり俺の意思が弱いとでも?」

「散々引っ掛かっておいて何を今更。余の障壁エナジーガードと魔力が無ければ人間の貴様など、とうに干からびておったわ」


 干からびるという言葉が果たして何を意味しているのかは、リリスパインがサキュバスという点から容易に察することが出来た。


「先にも言ったがリリスパインはこれでも古参の一人。グロウグリアスなぞ目でもない程度には魔力を備えておる。まぁ、余とは比べるべくも無いが」

「分かってるって。いちいち付け加えんな負けず嫌いめ」

「ふんっ。本来ならば、余は感謝の一つでもされる側なのだぞまったく」


 「その程度で済んでいるのは誰のおかげだと」などと独りごちり始めたシオンを適当にあしらいつつ、改めてリリスパインに向き直る。

 種さえ分かればなんてことは無い。あとはこちらの意思の強さで誘惑を跳ね返すだけだ。魔王の全裸を見ても動じなかった、この理性の塊を舐めるなよサキュバスめ。


 当のリリスパインは俺の視線に三度気付くや妖艶な笑みを浮かべ、しなやかに指先を這わせて両肘を抱き、形の良い乳房を掬い上げるようにして視覚に訴えてきた。


「うふっ」

「【えっろ……】──あっ」

「引っ叩くぞ貴様」


 いい加減、話が進まないと俺は大広間から追い出されたのであった。

 って俺の所為じゃ無いだろこれ。

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