六章 愛なんて なければいいと 思うのに 胸の高鳴り 捨てられませぬ その5
太陽が沈み街灯の灯る頃、俺は総合公園を訪れていた。
ここは昼間は遊具で遊ぶ子供やその保護者、スポーツ施設の利用者などでそれなりに人が集まるが、夜になると打って変わって心細くなるような閑寂とした空気が漂う。
住宅街からやや遠いのもあるのか、通勤や通学に利用する者もいない。今日は近くの図書館が休館日なのもあってか、本当に誰もいない。
おそらく、俺を待っている者以外は。
一旦足を止め、顎から垂れる汗を拭う。
息を整えて右手で抱えた筆を持ち直し、再び駆け出した。
林を抜けて、待ち合わせ場所に指定されていた噴水が見えた。
そこには予期した通りの姿があった。
「……五分の遅刻よ、灯字さん」
水の織り成す透明なヴェールの向こうから、いつも通りの着物姿の弥流先生が現れた。
「すまない。しつこい男を振り払うのに時間がかかったんだ」
「あら……そうなの?」
「嘘かどうかは、この博女の制服と顔中を流れる汗を見れば分かるだろう?」
「着替えてくればよかったじゃない?」
「どちらにせよ遅刻するだろ、ギリギリの時間を指定しやがって」
俺の文句を弥流先生は笑い混じりに「ごめんなさい」の一言で片づけた。
どうせこれ以上の不平不満も健啖家の彼女には無駄だろう。俺は溜息を吐いて話題を変えた。
「こんな時間に人気のない所に呼び出すなんて、教師としてどうなんだ?」
「実はアタシ、聖職者なんかじゃないの」
「じゃあ、何だよ?」
「悪魔よ」
単語のインパクトとあまりにもあっさりした口調のギャップに、少し理解が遅れた。
「……メタファーとしての?」
「いいえ、イグジステンスよ」
改めて弥流先生の姿を見やる。
だがやはり彼女には、異形の片鱗も見受けられなかった。
「弥流先生、もしかしてマインに毒されたのか?」
「あら、信じられないの?」
「ああ。まあ、証拠の一つでもあれば信じるんだが」
「いいわよ、見せてあげる」
弥流先生は自分の額を手で隠し、除けた。
その一瞬の時間で彼女の額に赤黒い角が現れた。それは白い肌に直接生えていた。
模造品だとは思えなかった。その角は街灯から受ける人口の光を忌み嫌っているように照り返さず、鈍い僅かな輝きを放つだけだった。本物だけが持ちうる、重々しく玲瓏たるものだ。
「どう? これで信じてくれる?」
呆気に取られていた俺は、問われて我に返り、取り繕うように笑って返した。
「さあな。手品か何かか?」
「そう。なら、これでどう?」
すっと弥流先生は手を持ち上げ。
「出てらっしゃい」
パチンと指を鳴らした。それはガラス玉同士をぶつけたかのようによく響いた。
途端、背後から下駄による足音が聞こえた。
普段足元から聞こえる馴染みあるはずのそれが、夜の空間の中だと異様に不気味に聞こえた。
俺は弥流先生の様子を警戒しつつも背後を振り返った。
「なっ……!?」
脊髄を電流が駆け抜けたかのような衝撃が俺を襲った。
そこにいたのは金髪碧眼のちっこい少女。
世界マインだった。
しかし彼女もまた、美甘と同じように怪奇な格好をしていた。
まず肌という肌が真っ白だった。比喩とか形容ではなく、本当に白いのだ。白粉をたっぷりと塗ったように。
顔は藍色と青で隈取っていた。悪者や人外の役を意味する、時平の隈というものだ。目元と口に黒で線を引いて、さらに藍色ののたうつ曲線を加えておどろおどろしい面相を作り上げているのだ。
金色の髪は爆発的に毛の量が増えており、あたかも噴火したかのごとく盛り上がり方々に広がって、滝のように落下していた。花火の柳みたいにも見えた。
大胆に左肩から胸までをはだけている。胸には晒を巻いていた。露わになった肩から腕にかけて、茎が赤みを帯びた黒百合がいかにもグロテスクに描かれていた。それは淡く光を放っており、ますます底気味悪さが増している。
身に纏っている男性用の着物は黒が地で、荒れ狂う大海を金糸で再現していた。
暗緑色の帯より下は右脚が曝け出されており、素足に黒い鼻緒の下駄を履いていた。
着物姿の人が増えたとはいえ、それでも今のマインの格好はあまりにも異様だ。
だが何よりも俺の目を驚かせたのは、彼女の双眸だった。
いつも活力の塊みたいに輝いているそれが、今やすっかり光を失っている。
その瞳を俺は見たことがあった。
「……弥流先生、お前……」
睨みやっても彼女は動じた風もなく、唇から僅かに歯を覗かせて笑った。
「ゾンビ症。もうとっくに分かってると思うけど、これはアタシの魔法によるものよ。目の合った相手の精神力を削り、放心状態にできる。その状態の人物に暗示をかけると、意のままに操ることが可能になるの。暗示の方は厳密には違うんだけど……これから死ぬアナタには関係のない話ね」
弥流先生は噴水の縁に腰かけ、続ける。
「そしてもう一つ。アタシは望んだ相手に対して魔の力を授けることができるの。それを授かった人間はさっきの美甘さんや、目の前にいるマインさんのように魔装し、魔力が使えるようになる」
「望んだって……。こんな状態のマインが望むわけないだろッ!」
「そうね。だから正しくは望ませた、になるわ」
脚を組み肘をつき、顎に手を乗せ。くつろいだ様子で彼女は言う。
「受け継いだ魔の力はね、悪魔の魔法を己の性質に変化させて使うことができるのよ」
その言葉を聞いた直後。
「……闇に魅入られて眠れ、《ダークネス・ハートフィールド》」
感情の死んだ声が聞こえた。
途端、足元が暗い紫色に輝きだした。
「なっ、何だ……、うっ!?」
光を受けた瞬間から、重力が強くなったかのように体が重くなってきた。この感覚は美甘の銃弾を食らった時と同じだ。
それならば、対処法の見当はすでについている。
筆を握る手に力を込める。穂を青い炎が包み、魂力が熱く燃え上がる。
「……くっ! はぁ、はぁ」
完全に症状を消すことはできなかったが、それだけでかなり楽になった。
その様を見た弥流先生はまるでパフォーマンスに魅せられた観客のように拍手して言った。
「すごいわね。多少効果が弱くなっているとはいえ、アタシの能力をそういとも容易く破るなんて」
「もう諦めろ。お前の能力は、俺には通用しない」
「いいえ」
首を振り、彼女はマインを指差して言った。
「まだ終わりじゃないわ」
「何だと……?」
つられてマインを見やるやいなや。
ふわりと甘ったるい香りが鼻孔をくすぐった。嗅いだことのない、脳に直接届くような濃ゆい香気だ。
「あ、う……」
その匂いは瞬く間に頭を霞ませ、意識を朦朧とさせる。
それに支配されていくと、足元の《ダークネス・ハートフィールド》の効果をも受け入れることになる……現に筆を握っているのに、意識のすり減りが激しい。
甘い香りはマインから漂ってきていた。
彼女の方の紋様が、脈動するようなリズムで発光している。
おそらく、魔装とやらで得た能力に違いない。
「悪魔の中には人を誘惑し、堕とす種が存在する。アタシもそういった力を持っていて、眷属にした存在にもその能力を与えることができるの」
弥流先生が何かを言っているようだが、頭に入ってこない。
それよりもこの匂いをもっと嗅ぎたい。体全体をこの香りで満たしたい。
俺はマインに近づいて行き。口と鼻で匂いを思い切り吸い込んだ。たちまち体が蕩けていくような甘美な心地になり、心臓の小気味よい鼓動に思考が埋め尽くされていく。
マインがそっと手を伸ばしてきて、《祈願之筆》を握る俺の手をそっと包み込み、一本一本指を外していく。俺はそれに逆らうことなく、素直に従った。
やがて手から離れた《祈願之筆》は地面に落ち、どこかへ転がっていった。
匂いに酔いしれた俺は地べたに這いつくばり、マインの足元のつま先から順に彼女の全身を嗅いでいく。長い着物風の袖が手を覆ったが、それを直すなんてことは考え付きもしなかった。
「フフッ、さすがの灯字さんも、もう骨抜きね……」
背後で弥流先生が立ち上がり、近づいてくる足音が聞こえてきた。
ハイヒールの踵が石畳を叩く、硬く高い音。
聞いていると徐々に距離が詰まってくるのが分かる。
息の詰まるような時間。
それはあと一歩で彼女の手が届くという刹那、終わりを告げる。
俺は袖の中に引っ込めていた左手を出し、握っていた筆を振り返りつつ地面に向かって振るう。
地面につく直前に穂が青い炎に包まれ、先端が黒く染まった。
一息で地面に弧形の線を書く。その一線から黒く勢いのある水飛沫が弥流先生に向かって噴き出す。
「っひゃ――!?」
墨香る飛沫の壁の向こうから恐怖じみた悲鳴が聞こえた。この様子なら寸刻は稼げるだろうが、決して長い時間ではないはずだ。その間にマインをどうにかせねば……。
「――シャアアアアアッ!」
いきなり奇声が背後から聞こえた。
俺は反射的に振り返りつつ、筆を横にして顔の前にやった。
ガチンッ。
硬質な音が響き、一瞬右手に凄まじい振動を感じた。マインが噛みついたのだ。
つい最近、別の学校に出向いた時にゾンビ症のヤツに襲われかけたことを思い出して苦笑する。
「美甘がいない状況で、へまはできないからな……」
左手同様、右手も仕舞っていた筆を握り袖の中から出す。それに魂を込めて、紅い炎を纏わせる。途端、穂先が紅色に染まる。
そして白粉に染まり、青く隈取られたマインの顔を見やり。
「お前の魂を、この手で取り戻す!」
その悪と人外の象徴である色を、穂先で素早く紅く塗りつぶしていく。
一筆一筆重ねるごとに彼女の瞳に光が戻っていく。確かな手ごたえが、ますます筆を加速させていく。
そして最後に残った唇を見据え、俺は叫んだ。
「目を覚ませっ、マイン――ッ!」
穂先が触れ、血液が凝固したような朱殷(しゅあん)を真紅に描き換えていく。
その唇が美しい花弁のような色に染まる頃。
足元の忌まわしき魔法による紫の光が立ち消え、彼女の口が薄く開いた。
「……灯の字……」
マインは瞳には理性が宿り、声には温かな感情の響きが戻っていた。
「おう、おはよう」
軽い調子で言ってやると、安堵に満ちた笑みを見せてくれた。
それから彼女は怪訝そうに辺りを見回し、首を傾いだ。
「ここ……は?」
「公園だ。ちょっとばかし人気のない、監視カメラぐらいつけろよってぐらい不用心な」
「――危ないッ!」
突然、マインに手を強く引かれた。俺はその力に逆らわず、咄嗟に彼女の体を引きつけるように地面に倒れ込んだ。直後、さっきまでいた場所を刃物が貫こうとした。しかしその寸でで刺突が止まる。
一拍遅れて俺は、刃先を突き立てられる直前にそれが失速したおかげで助かったのだと理解する。もしも躊躇いなく刃が迫っていたら、今頃……。背中に冷たい汗を感じた。
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