六章 愛なんて なければいいと 思うのに 胸の高鳴り 捨てられませぬ   エピローグ

「どうして……殺せないの」


 弥流先生は折り畳みナイフを突き出した格好のまま呆然と立ち尽くしていた。


「……なあ、弥流先生。あんた、悪魔なんだよな?」


 彼女が弱々しく頷く様を確認し、俺は先を続ける。


「どういう事情で人間世界に来たのか知らないけどさ。お前に人殺しは無理だよ」

「何で……何でよ? アタシはたくさんの魂を、魔界に持って帰らなきゃいけないのに」


 俺はワンピースについた砂埃を叩きつつ、言った。


「数百人単位をゾンビ症にできる弥流先生のいる魂魄高校が今日まで平和だったことが、何よりの証拠だろ」

「だからっ、何でよ……!?」


 癇癪を起こした子供のように叫ぶ弥流先生に、俺は労るような思いで告げた。


「……きっと、弥流先生は優しすぎたんだよ」


 膝から力が抜けたのか、弥流先生はその場にへたり込む。彼女の手からすり抜けたナイフが地面に落ち、空しい音を響かせた。

 時が止まったかのような静寂が場を満たす。


 やがて弥流先生は翡翠の瞳に涙を湛え、暗い夜空を仰ぎ。何もかもかなぐり捨てて、声を上げて泣きだした。


 もう悪魔なんていなかった。そこにはただ傷つき疲れ果てた、一人の女性の姿があるだけだった。

 俺とマインは何もせず、ただ佇んで彼女を見守っていた。

 それからしばらくして少し落ち着いた弥流先生は袖の中から雪輪模様のハンカチを取り出して、涙を拭った。

 ぼんやりとした様子でハンカチを見下ろした彼女は、ふいにはっと目を見開いた。


「あっ……。これ、灯字さんのだったね」

「そういや、そうだったな。ずっと手元になかったから、忘れてた」

「ご、ごめんね。先生もすっかり忘れてた」

「別にいいよ、ハンカチの一枚や二枚ぐらい。誕生日プレゼントも大したもんじゃなかったし、そのおまけってことでもらってくれ」

「だ、ダメだよそんなの。ちゃんと返すよ」


 ムキになって言う弥流先生に俺は思わず苦笑した。


「そうか。じゃあ一つ、約束してくれないか?」

「約束?」


 頷き、俺は声を改めて言った。


「ちゃんと手渡しで返してくれ」


 彼女は瞳を泳がせ、訊き返してくる。


「……手渡しで?」

「ああ、直接俺に返してくれ。誰かに預けてとか、下駄箱とか机の中に入れるのはなし。……いいな?」


 黙していた弥流先生はやがて目を潤ませ、震えた声で、でも笑って言った。


「……灯字さんって、結構ドSだよね」


 予想外の単語に反応できずきょとんとしていると、隣で「うむうむ」とマインが声に出して頷いていた。


「あの切り込み隊長と名高いくっしーを袖にした男だからな。Sの素質は十分にあるであろう」

「……なあ、どこから突っ込めばいいんだ、それ?」


 途方にくれた俺をマインが哄笑し、つられて弥流先生も笑いだした。


「いや、Sじゃないぞ? 俺はノーマルだからな?」

「ではMなのか? アマミーの尻に敷かれてるのも、それなら腑に落ちるが」

「そうね。あっ、今度二人で灯字さんをいじめちゃう?」

「ほほう。それは面白そうだな」

「ちょっ、まっ、俺はノーマルだって言ってるだろ!」


 どこからか聞こえてきた犬の遠吠えと俺の叫び声が重なり、暗い月夜に響いた。

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