三章 情報の 航路を決める 船長は どんな分厚い 面(つら)をしてるか

 三章 情報の 航路を決める 船長は どんな分厚い 面(つら)をしてるか   その1

 書というのは実に素晴らしく、筆と墨、紙さえあればたちまち空き時間を有意義なものに変えることができる。

 無論、墨を使う以上、多少落ち着いた空間でなければならないという制約はある。しかし俺は徒歩通学で、基本自宅か教室にしかいない。つまりほとんどの時間、書のできる場所にいるってわけだ。

 幸いうちのクラスには室内で鬼ごっこを始めるバカはおらず、おかげで朝からゆっくり書の一時に浸ることができている。


 墨の香り、穂先が紙上を滑る感覚、その軌跡に書かれる黒い文字。五感が書に満たされていく。時の流れはゆるやかに、あらゆる雑音は耳の外から消え去り、体は羽が生えたように軽くなり、心は太平洋のように穏やかに凪いでいく。


 おそらく世界中を探してもこんなに平穏で、幸福な一時を送っている者は俺以外に存在しないだろう。時間というのは万人に平等に与えられているが、それにどのような価値を与えるかは本人次第。

 ゆえに俺は筆で板書を許されたここ、魂魄高校に入学したわけである。一日を幸福なものにするために。


 筆を置いて雑記帳に綴られた字と、手本にした古い和綴じの冊子とを見比べる。それは名も知られていない江戸時代の庶民の少女によるものだ。内容はほぼ日記帳で、日々の出来事やふと思ったことなどを気の抜けたくずし字で書いている。だが手本に選ぶのだから当然、他よりも抜きんでたものがある。


 この冊子の歴史的価値はよく分からない。しかし確かなのは、書かれている字が実にのびやかで美しいということである。変に肩肘張っておらず自然体で、それでいて地の実力が窺えるところがいい。画家のラフスケッチを見ているような感じ、と言えば伝わるだろうか。

 それに読み物としてもなかなか面白い。文体が砕けており表現も素直で、当時の彼女の感情や日常風景が生々しく伝わってくる。生々しすぎて時折目を覆いたくなる部分もあるがそれもまた一興。

 我が家の蔵にはこういった隠れた名作がよく眠っている。一風変わった手本が山となっており、宝島ならぬ宝山だった。


 さてもう一筆、と筆に手を伸ばしかけたところで「灯字ちゃん」と美甘に横から呼びかけられた。


「その辺にしておいた方がいいですよ。もう授業始まりますし」

「……ああ、もうこんな時間か」


 時計を見やると始業五分前だった。

 俺にはことさら気に入った書風の字を手本にすると、周囲の環境や現状など関係なく没頭して書を続けてしまう悪癖があった。だから切り上げ時を教えてくれる美甘の存在はすごくありがたかった。

 さながら優秀なマネージャー……なんて言ったら怒るんだろうな、きっと。


 冊子を仕舞っていると、美甘の方から気のない声で質問を投げかけられた。


「今日は写経してたんですか?」

「写経なんて堅苦しいものじゃない。まあ、書き写すことで得られる知識もあるかもしれないけど」

「だったら成績もいいはずですよね?」

「黒板や教科書の字が素晴らしい出来栄えのものだったら、そうなってたかもな」

「よくもまあ、いつも書道してて飽きませんね」

「お前だって毎日和菓子作ってんだろ?」


 ぐぐーっ。俺の腹が鳴った。


 食べ物の話を始めた直後にこの反応、もはや明確にあることを物語ったのと同義だ。


「まさか、また朝ごはん食べてないんですか……?」

「ついさっきご飯とめざしに、葱の味噌汁を食べた気がしたんだが……、書の中の出来事だったか?」

「現実で食べてくださいよ、現実で。……まったく、仕方ないですね」


 美甘は肩を竦めた後、胴乱から平均的な大きさの弁当箱を取り出し、俺の机に置いた。


 彼女の小さな手が蓋を開ける。中には二つのおはぎが入っていた。

 一つは茶色い餡子が眩しいベーシックなもの、もう一つは緑色の抹茶きなこが衣になっている。

 どちらも形がきれいに整っており、サイズもなかなか。


「これ、食べてください」

「おおっ、美味しそうだな。今日も美甘の手作りか?」


 美甘は「そうですよ」と仏頂面で頷く。


「いつもありがとな」

「まったく、明日からはちゃんと家で食べてきてくださいね」

「分かった分かった」

「もう、わたし本気で怒ってるんですからね」


 そう言いつつも毎日俺のために何か朝食を作ってきてくれる。本当、美甘には頭が上がらない。まあ、代わりに度々治安維持委員会とか面倒なことに巻き込まれてるが、それを差し引いてもだ。

 餡子のおはぎを手に取り、口の前まで持ってくる。

 食欲をそそる、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。それをぱくりと一口。


「ほろりと解けていく餡子の甘味と、もっちりした米の感触が合う。咀嚼せずにいると小豆の香りがまったりと広まり、噛むと米と混ざり合い新鮮な甘さへと変化する。これは作り手が餡子と米の量を事前に綿密に計算したからこそ可能な、二重層のうまみ! それにこの餡子は『御菓子司(おかしつかさ)・茶之間仁屋(ちゃのまにや)』特製のもの。しっかりと甘みがありながらもさっぱりしていてしつこくなく、爽やか。急くことなくゆっくりと楽しみたくなる、平安の宮中の縁側を思わせるような味わいだ」


「灯字ちゃんって、ものを食べると舌が回りますよね」


 呆れ半分、苦笑半分の表情で言われた。顔が熱い。


「……食の感動だけは直に口で伝えたくなるんだ」

「まあ、それだけ味わって食べてくれるなら、……その、嬉しいです」


 蝋燭に炎が灯るように、ぽっと美甘の頬が赤くなる。意外と彼女も照れ屋なのだ。


 美甘のおはぎに舌鼓を打ちつつ、ぼんやり周囲を見回す。


 新鮮な陽光の注がれた教室。

 朝のホームルーム前というのはそれなりに騒がしいものだが、今日はいつもと少し雰囲気が違った。どこか浮ついているというか、クラスメイトのテンションの目盛りが一つか二つ増している。

 室内にいるほぼ全員がラッピングされた袋や凝ったデザインの小箱を手に友達とはしゃいで、その合間に何度もスマホを見やり「まだかな?」「もうすぐ来るね」みたいなやり取りを繰り返していた。


 噂をすれば何とやら、ドアが開きみんなの目的の人物が入ってきた。


「ふぁああ……。みんな、おはようー」

 とろんとした目の弥流先生だ。

 美甘も含めたクラスメイトがわっと立ち上がり、彼女の元へ集まっていき。


「弥流先生っ、誕生日おめでとー!」


 お祝いの言葉を雨あられのように降らせた。

 弥流先生の顔からたちまち眠気が消え去り、ぱちくりと瞬きをして首を傾げる。


「……えっと、誕生日?」

「まだ寝ぼけてるんですか?」

「今日は先生の誕生日だろ」


 弥流先生を取り巻き、みんなわいわいと盛り上がっている。

 俺はそんな彼等をおはぎを食べつつ眺めていた。あの賑々しい空気の中に混じるのはちょいとごめん被りたい。


「これこれ、プレゼントプレゼント! クッキーを焼いてみたの!」

「オレ達はみんなで出し合ってマグカップ買ったんだ! 使ってくれると嬉しいぜ」

「わたしのは抹茶マフィンです。きっと美味しいですよ!」


 美甘が抹茶マフィンにしたのは弥流先生の好物であるスイーツと、自分の得意分野を合わせた結果だろう。相手に歩み寄りつつも自分のカラーも出す、彼女らしいチョイスだ。


「その……、先生の誕生日、覚えててくれたの?」


 弥流先生が呆けた表情で尋ねると、みんな笑い混じりに答えた。


「もちのろん、もちろんだよ!」

「先生、自己紹介で言ってたじゃないですか」

「バッチリ聞いてたぜ、この両耳でな!」


 手の中に山となったプレゼントとみんなの顔を見比べていた弥流先生は、何かを言おうと口を開いた。

 だが言葉が出てくる前に、瞳から透明な雫が伝った。


「……え、あれ?」


 彼女は自分の頬を触り、戸惑い気味に指についた涙を見やった。


「先生、どうしたの?」

「ま、まさか、プレゼントが気に入らなかったとか?」

「うっ、ううん、すごく嬉しい……嬉しいよお」


 ぽろぽろと、笑顔のまま涙を流し始める弥流先生。

 みんなはほっと胸を撫で下ろし、お互いに照れ臭そうに笑い合った。

 涙を流し続ける弥流先生に、美甘がハンカチを差し出そうとする。


「これ、使ってくださ……あっ」


 自身が手にしているハンカチを見やって、美甘は素っ頓狂な声を上げる。

 それは俺が一昨日に貸した雪輪模様のハンカチだった。


 困り顔で見てくる美甘に、俺は気にするなの意で手を振った。

 彼女は恩に着るという風に顔の前で手を立てて、ハンカチを弥流先生に渡した。


「ありがとうー……」


 弥流先生は受け取ったハンカチで頬の涙を拭い、ご丁寧にチーンと鼻までかんだ。


「あ、ごめんね、思いっきり汚しちゃって……。洗濯して返すね」

「それでしたら、灯字ちゃんに返してあげてください」

「え、灯字さん?」

「は、はい。そのハンカチ、灯字ちゃんのなので……」


 途端、クラスメイトから戸惑いの声が湧き上がる。


「オイオイっ、何で茶之間仁が入木のハンカチを持ってるんだよ?」

「えっ、それはその……同じ治安維持委員会ですし」


 美甘の答えにみんなは納得せず、追及はさらに厳しくなっていく。


「そんなの説明になってないっしょ。委員会が同じだからって、普通日をまたいでハンカチの貸し借りはしないんじゃない?」

「え、あ、まあ、そうかもだけど……」

「ねえねえ、何で持ってるの? 何で?」

「んーと……、えーと……」

「本人に訊けばいいんじゃないかな?」

「おっ、それもそうだな」


 教室内の視線が一斉に俺に向けられる。こんなの入学してすぐの頃、筆で板書しようとした時以来だ。


「……何だ?」

「決まってんだろ、オマエのハンカチを何で茶之間仁が持ってるのかってことだよ」

「ねえねえ、どうしてどうして?」

「……泣いてたからハンカチを貸した。それだけだ」


 気の利いた嘘も思いつかなかったので、端的に真実を伝えた。

 しかしそれは逆に火に油を注ぐ結果となり、さらに問い詰めは激化していった。


「どっ、どういうことだよ、泣かしたって?」

「まさかまさか、痴情のもつれ!?」

「ちっ、違いますから! 灯字ちゃんとわたしは別にそんな……」

「でもでも、ちゃのさん、顔真っ赤じゃん!」

「……もしや、先生と同じで嬉し泣き!?」

「ってことは、もうゴールインしちゃったの!?」

「もーうっ、違いますから~ッ!」


 再び矛先はこちらに向き。


「どうなんだよ、入木!」

「いや、だからな……」


 結局避難していた俺も騒ぎに巻き込まれることになってしまった。

 そんな俺等を眺めていた弥流先生はくすりと笑った。


「みんな、先生にはもったいないぐらい、本当にいい子達ばかりね……」


 その笑みは嬉しそうに見えたけど、どことなく寂しさのようなものも入り混じっていたような気がした。

 ふいに俺と美甘のスマホが鳴りだした。

 まさかと思いスリープ状態を解除すると、予想通りの通知が表示されていた。


「……嘘っ、またこんな時間に事件!?」


 治安維持委員会に通報があったのだ。どうやら近くで暴れている学生がいるらしい。


「行きますよ、灯字ちゃん!」

「おっ、おう!」


 俺は弁当箱に蓋をしておっ立ち、駆けだした美甘の後を追った。


「あっ、逃げるなっ!」

「話の続き聞かせてよぉ」


 背中に呑気な級友の声を受けながら。

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