二章 肩が凝る 会議の空気 やわらげにゃ 奏でろ音色 回れよ輪舞(ろんど)   エピローグ

 会議が終わってみんなが帰った後も、俺は椅子に腰かけていた。隣には美甘もいる。彼女は俯き、覇気のない顔で黙していた。


 窓の外には街灯の白い光が見えた。とっくの昔に日は沈んでいる。

 机の上に置かれた雪輪模様のハンカチ。それは俺が美甘に貸したものだ。予備のため一度も使われていなかったのだが、今は彼女の涙で色の変わりが一目で分かるほど湿り、皺だらけになっていた。


「わたし、もう帰ります」


 ふいに美甘が言った。


「そうか」

「これ、洗ってから返しますね」


 机上のハンカチを彼女はポケットにしまう。


「別に気にしなくていいんだぞ」

「いえ。親しき中にも礼儀ありです」


 ぎこちなく笑った顔を見ると、俺は何も言えなくなった。

 美甘はやおら立ち上がり、やけにゆっくりした足取りで部屋を出ていった。


 室内が音を忘れたように静まり返る。


 俺は自販機で買ってきたグレープジュースを飲んだ。果汁なんて全然感じない甘ったるい味が口に広がる。マズい。

 一口飲んだだけですぐにイヤになって、蓋をして机の上に置いた。 

 途方に暮れた思いでしばらく呆けていると、ふいに入り口のドアがノックされた。


「……どうぞ」


 そう声をかけると、静かに引き戸が開けられた。


 廊下には見覚えのない眼鏡の老夫が立っていた。白髪交じりで、格好は灰色のスーツにくすんだ黄いろのネクタイ。

 左手を黒いアームホルダーで吊っている。骨折したのだろう。


「君が治安維持委員会の委員かな?」

「そうですが、あなたは……?」

「私ぁ、ある学校で教頭をしてるんだ」


 学校名を聞くと、合点がいった。


「ああ、今日の野球部の……」

「うちの学校の生徒が、世話になったようだね。そのお礼を言いに来たんだ」

「お礼参りですか?」

「そんな物騒な用件じゃないよ。本当にお礼を言いに来ただけさ」

「はあ。でもお礼言われるようなことなんて、別に……」

「いいや、本当に感謝してるんだ。あの子達は野球に対する熱意を取り戻したんだ。君達、治安維持委員会のおかげでね」


 どう返せばいいか分からずに老夫を見やっていると、ふとアームホルダーが目に留まった。


「もしかして、そのケガって……」


 彼は苦笑し、右手で頭を掻いた。


「ちょっと彼等といざこざがあってね。その拍子に、ぽきっとね」

「だ、大丈夫でしたか?」

「平気さ。ちょっと痛かったけど、すぐに治るらしいしね」


 老夫はひらひらと振っていた手を下ろし、ちょっと顔を近づけて訊いてきた。


「君の名前は、入木灯字君というらしいね?」

「あ、はい」

「もしかして入木仙道(いりきせんどう)さんのお孫さんかい?」

「祖父のことをご存じなんですか?」


 尋ねると彼は頷き、目を輝かせた。


「直接の面識はないがね。彼のファンなんだよ」

「そうだったんですか」

「お祖父さんは元気にしてるかな?」

「いえ……。最近はあまり具合がよくなくて」

「そうか……。まあ、もう結構お年を召してらっしゃるからね」


 本当に祖父の作品が好きなのだろう。老夫は少し寂しそうに肩を落とした。


「灯字君も書道をしているのかい?」

「はい。でもまだ、半人前ですけど」

「よかったら、これに何か書いてくれるかな? こんなもので申し訳ないんだけど」


 と言ってノートを一冊差し出してきた。

 俺は袖から道具一式を取り出して手早く準備し、筆を持った。


「何か希望はありますか?」

「そうだねえ。じゃあ、監督になれるよう、励ましの言葉をもらいたいかな」

「監督……ですか?」


 老夫は穏やかに笑って頷いた。


「ああ。私ぁこう見えても、野球が好きでね。今日病院から帰ってきたら、あの子らが野球チームを作るって聞いたんだ。だからぜひ彼等の監督になってみたいって思ったのさ」

「……分かりました。その願い、叶えましょう。俺の書で……」


 墨汁を吸った筆をノートの紙面に入れる。いつもと違う質感を手に感じつつ字を連ねていき、文章を完成させる。

 老夫は目を細め、声に出してそれを読んだ。


「『愛とは化学反応である』……どういう意味だい?」

「祖父の言葉です。優秀な師とは、愛を以て人を変えるものだといつも申していました」

「ほう。書道はやっぱり、お祖父さんから習ったのかい?」

「はい。小学生の時から祖父の教えを受けていました。書道に関するいろはに、心構えや教養など、必要なことは全て伝授してくださいました」

「ふむ。生徒も言ってたよ。灯字君の書を見て、目が覚めたとね」


 老夫は俺の書いた字を眺めたまま言った。


「芸術には光が宿る。それは時に、心の闇を払ってくれる。私も何度も仙道さんの作品に救ってもらったものさ」


 ふと彼は照れ臭そうに頭を掻いた。


「……まあ、そんなこと、仙道さんのお孫さん……いや、お弟子さんなら、とっくに理解してるか。すまんね、年を取ると説教臭くなってしまって」

「いえ、そんな。含蓄ある言葉で、勉強になりました」

「そう言ってもらえると、ありがたいよ」


 老夫はノートを片手で器用に鞄に仕舞って言った。


「では、そろそろ失礼するよ。大変だろうけど、これからも頑張ってな」

「はい。ありがとうございます」


 最後に一度お辞儀し、老夫は去っていった。

 俺はふうと大きく息を吐き、椅子に腰を下ろした。


 ふと喉の渇きを覚え、机の上のボトルを手に取り、蓋を開けて飲んだ。

 さっきよりは味が澄んでいて飲みやすかった。


   ○


 月光照らす繁華街の裏路地。


 暗がりの中、十数人の男が一人の女性を取り囲んでいた。

 彼女は男性達と同じぐらい背が高く、袴に着物風のパーカーと珍しい格好をしている。人相はフードを目深にかぶっているせいでよく分からない。しかし手に持っているものがレディースのハンドバッグであったため、性別の推測はできた。

 男達は黒い学ラン姿で、全員がパイプや釘付きバットなどいかにもな武器を手に女性を睨みやっていた。

 モヒカンの男がふんぞり返って輪の中から歩み出て、女性にガン飛ばし口火を切った。


「よお、姉ちゃん。月がきれえな夜だなあ? ああん?」


 女性は答えない。顔を俯けており、反応らしきものがまったくない。

 モヒカンは少し顔を歪めて続ける。


「どんな用があってここまで来たんだ? 夜のお散歩かあ?」

「そんなわけねえっしょ。こんなゴミ臭えとこ、パンピーは来ねえっすよ」

「それもそうだな。はっはっはぁ!」


 男共はバカみたいな大声で哄笑する。

 しかしそれでも女性は身動き一つしない。

 モヒカンは舌打ちし、苛立ちを露わに彼女に詰め寄る。


「おいっ、何か言ったらどうなんだよ!」

「しょーちゃん、そんなムキにならなくても……」

「るっせえな! オレ達の縄張りに入ってきたコイツがワリいんだろうが!」


 仲間の制止を無視してモヒカンは女性に迫り、フードに手を伸ばす。


「どんなふざけたツラしてんのか、ちょいと見せやが――」


 その時、女性が僅かに顔を上げた。


 その光線は一瞬の内にモヒカンの目を射抜いた――といっても、ただの眼光だ。本来なら目を眩ますことだってできやしない。だが彼は女性と目が合った途端、糸の切れたマリオネットのようにだらりと腕を下げ、そのままへたり込んでしまう。顔からすっかり感情が抜け落ちて、表情が砂漠に滲み込んだ水のごとくすっと消えていった。


 あらゆる音が静寂に身を隠す。

 月光が雲に遮られ、辺りは濃い闇に包まれた。


「しょ、しょーちゃん……?」


 仲間の一人がモヒカンの元へ駆け寄ろうとすると、女性は地面を足で擦って大きな音を立てて、そちらを見やった。音に反応しソイツも彼女の方を見やる。

 まったく同じことが起きた。

 ソイツも女性と目が合うと地面に膝をつき、瞳から理性の光を失ったのだ。


「なっ、何だよ……、何だってんだよ!?」

「この女……ばっ、バケモノじゃ……」

「にっ、にっ、……逃げろおッ!」


 誰かの発した一声が引き金となって、男達は女性とは反対の路地の出口へ一目散に走りだした。

 女性は口を三日月のように割り、呟いた。


「……誰一人、逃がさないわよ……」




 それから十分と経たない内に路地裏には、目と口を開き呆けた顔になった男達が冷たい地面に転がっていた。


 風が吹き、どこかから転がってきた空き缶がモヒカンの頭に当たる。だが彼は指一本動かす様子さえ見せなかった。


 そんな彼等を女性はしばらく眺めていたが、やがてくるりと背を向けて立ち去っていこうとした。


 ふと顔を上げ、その先に人影があることに女性は気付く。

 逆光になっていて、女性からは黒い影としか見えない。

 それは妙に幼さの残る少女の声でぼそりと言った。


「やっぱりこんな生温い方法じゃダメだ……」

「……そうは言ってもね」


 女性は肩を竦め、諭すように影に語りかける。


「これ以上は、どうしようもないわよ。アナタの持ちかけてきた条件を順守するなら」

「……何を言ってるの?」


 影は体を揺すり、「フフ、フフフフフッ」と笑い声を響かせて言う。


「あるでしょ。もっと簡単で、手っ取り早い方法が……」

「……でも、あの計画は」

「あの計画は、何?」


 影の声に冷たい響きが混じる。


「もうわたし達は限界なんだよ。あなたの悠長なおままごとに付き合っている余裕なんてない。分かるよね?」

「……ええ」


 影は歩きだし、女性に近づきつつ言った。


「だったら協力して。一気に蹴りをつけて全てを終わらせるには、あの方法しかないんだから」


 歩みを止めた影の顔の下半分が女性には視認できた。だから彼女が「ねえ?」と念を押すように訊いてきた時、その口の動きを見て取れた。

 唇を噛み黙していた女性はやがて一度、小さく頷いた。


 影の口が「クスッ」と音を立てて歪む。

 すぐに裏路地に彼女の哄笑が響いた。


「ハハッ、アハハハハハッ、アーッハッハッハッハッハ!」


 笑い狂う影から目を背け、女性は倒れていた男共を眺めやった。

 身じろぎすらしなかった彼等が、ふいに放心した顔のままのっそりと起き上がる。

 そして笑い転げる影や女性に見向きもせず、足を引きずるようにして去っていった。


 男達の姿が裏路地から消える頃、厚い雲の向こうから再び月が顔を出した。

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