十月の月は遠くで透明な糸を垂らしながらじっとたたずんでいた。


 蒼が澄んでいる。空が透き通るのはどこまでも綺麗だ。星が歪んだ光になってここまで届いている。このちっぽけな俺がこうして生きていられるのは、本当に微かな差で生じた幸運のせいだ。あの星に生まれていたなら、たぶん死んでいた。いくつも光っては隠れていく精神たちが、今も夜空を漂っている。ああ、なにもかも幻影だ。否定すら嫌いだ。傷付くのを怖がる本能なんか、さっさと滅んじまえばいい。


 東京の端くれの街で、生き永らえていた。


 夜道は田畑に囲まれた道になり、終に山に入る。草の繁る畦道あぜみち静謐せいひつで刺さってくる臭いがする道。青臭い。獣の臭い。生き絶える間際の猛獣の咆哮が、俺には聞こえる。帰る場所はもうない。俺は山の生き物だった。人の形をした野獣だった。けれど、もう、山には戻れない。


 枯れ葉が散りばめられた、焦げたような色の草木を割け入り、ドス黒い木陰を行く。歩くたびにがさがさ音が立ち、その音は木立の向こうから反響してきた。


 目は慣れた夜の視界になった。


 ざらざらと音がする。木の、歯の擦れる音。自分の足音。生き物が通り抜ける音。凍った静けさだ。月の糸はたぶん、氷結している。だからあんなに白いような透明なのだ。


 木の臭い。草の臭い。泥と腐葉土、腐った、確かに息をする、山の輪廻の臭い。暗くて暗くて、あとは白と黒。あんまり色は見えない。眠るのは人間だ。ここは棲み分けされた別世界だ。生きるのは人間であってはならない。何者もうごめくごとに命を使っていた。生きることが山だ。


 俺の故郷はこんな場所だったと、こんな時にふと思った。


 頂上の付近は一層獣臭かった。


 命の臭い。俺たちはいつも泥臭い、爛々らんらんと眼を光らせる動物で、ドボドボと心から染みでてくる本能の血の臭いがする。恐ろしいほど自然だ。辺りの枯れ葉を集めて小さな山を作った。


 ライターを付けた。


 黒い世界の中に今にも飲み込まれてしまいそうな小さな赤だった。たったひとつ、この世界を変えたはずの革命の色。


 革ジャンのポケットから二本煙草を出した。


 一本咥えて火を付けた。もう片方は右手に持ったまま火を付け、力を抜いて指の隙間から落とした。すくった砂を持ち上げてからさらさらとこぼしている感じがした。火は枯れ葉の上にしがみついているかのようにしばらく薄い煙を上げていた。黒の世界でははっきりと差別化される灰色だった。


 口から煙を吐き出して、その煙草も枯れ葉で覆われた地面に落とした。煙が細い筋になって天に昇っていく。葉の落ちた枝の間から、星の流れる夜空が見えていた。


 奥から枯れ葉を踏む微かな音がした。視線を感じた。ちらとそれを一瞥いちべつし、俺は騒音と怪光の吐き散らされる街へと降りて行った。

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