ああ(第4稿)

 死のう。


 そう思ったら、もう他に考えることもしないで、ふらふら家を出た。玄関の扉を開けたのは数ヶ月振りで、あまりに長い時間を無駄に過ごしてしまったことに気づいた。


 色とりどりの木に囲まれた白い壁の、僕の生まれた家。山中にたたずむ小さな町の、丘の上の小さな家は、物心ついた時から、心の底ではただの一時少し休む場所だと思っていた。なのだけれど、どこを旅していても、まぶたの内に残り続ける、いつまでも暖かい記憶の場所だった。玄関の鍵を閉めた後、扉に僕は小さく頭を下げて、それからは一度も振り返らずに坂道を降りて行った。


 もうすぐ夏が来るようだ。目の悪い僕には太陽の光が白く見える。ぼんやりと霞む線がいくつも目の前に差してくる。辺りが一面、水の多く混ざった白い絵の具をだらりと垂らしたように、薄く見えた。新しく舗装された真っ黒く見えた歩道は、何も言わずに白を受け入れ、霞んでいった。


 昼間は音が少ない。


 少なくなったガソリン車がエンジン音を立てて、どこか遠くを走っている。こんな田舎ではその程度の音はきれいな空気がもみ消していく。


 かすかに人の声がする。


 何に興味を引かれた訳でもなく、道路の隅、何か落とし物でも探すようにかがみこんでブロック塀とコンクリートのせっしているところをいじくり、そっと耳を澄ます。


 二人の知らない声がこそこそと誰かについて話している。しばらくして、何を話しているのかようやく理解した頃、その言葉たちは、実体のないはずの胸の内の心を、荒く削り取った。


 耳を澄ましたことを後悔した。


 心の無くなった部分に鉛を詰め込まれて、胸が重くなった。もう聞きたくない。もう動けない。立ち上がった途端頭がふらふらして、ブロック塀に手をついたが、見つかることはなかった。誰も気にはしない。逃げ出した街角には何もない。



 旧国道は通勤時には混雑するが、昼間はただの道路。


 横断橋をゆっくり登る。車がまるで通らなくなったこの道では、ここを渡る人など誰もいなかった。黄ばんだ白い塗装の鉄が、古ぼけた危険の看板が、この空間を廃墟に仕立てる。


 僕はただ、じっと眺めた。


 空に、白い月がある。昼間に見える薄い月だ。ぼんやりと浮かんでいる。


 幻だと思った。


 咄嗟とっさに何か眩しいものを思い出しかけた。

 可憐で美しい微笑みが、脳内の奥底でふわりと浮き上がったのが、月に重なった。確かな実体は持たずに、霧に包まれたようにあやふやになり、壊れていき、少しの内に欠片として思い出せなくなった。脳裏は白くなった。



 何もかも白くなって消えてしまえばいい。


 どんなにいいものでも、地球にとってはただのガラクタでしかないと思う。


 ガラクタの中で生きる僕らも、もしかしたらガラクタかもしれない。


 そしたら、何の意味も持たなくなって、虚無と寂しさ以外、何もかも消えていってしまうのだろう。



 横断橋から下りて、北を目指した。立ち寄った。駅近くの寂れた商店街の中は、避暑地になっていた。全蓋式ぜんがいしきアーケード街。薄暗い。空気感が林の中に似ていた。おじいさん、おばあさんが、果物屋の前で立ち話をしている。最近の暑さは異常で、梅雨が忘れられているようだった。農家の人はどうしているのだろう。薄暗がりの中は近づいてくるまばらな人影が色を持ち始める。


 向こうに見える出入口の外の光はただ白くて、明るかった。僕はそこに行きたくて歩き続けるが、そこにあるのは溶けるように暑い日なのだ。いつまでたっても薄暗がりの鮮やかさに気が付けない。



 近くに小学校があって、なんとなく近寄った。グランドでサッカーをする子供たちがいる。聞こえてくる声が、とても楽しそうだから、つい、立ち止まってそちらを眺めた。ゴールキーパーの少年が緊張気味に直立している。気持ちがわかるような気がして、僕は目を凝らした。胸に、鉛が、鉛がさらにおおきくなって溶けだした。それはゆっくりと体内を回り、冷えて固まり、そんな重さが、のしかかってきた。じわりじわりと、いたぶるように僕を苦しめてきた。


 押し潰される。


 目を離して道路を見た。


 目の前のものを手当たり次第に投げつけたくなって、もうどうしようもないくらい暴れたくなって、走り出したくても足は動かなくて、やはりふらふらと歩くだけだった。


 いつもこうやって歩いていたような気がする。僕はもう何年もこうして歩いていたような気がしている。


 生き物はすべてが死刑囚だ。


 いつ執行されるかわからないまま、この世に収容されている。


 その中で罪を犯しても、何の意味があるだろう。誰が裁くことができるのだろう。


 僕には青い空が檻に見えた。


 何の意味も思いもない、檻に見えた。


 それを怖いと何度も思ったが、そこから出てやろうとは、一度も思わなかった。


 死ぬことは、たぶん、この監獄から出してもらうことだと思う。赦されるのなら僕の刑期はもう終わりにして欲しい。


 町外れの道、ガードレールを乗り越えて降りていくと、水の音がする。光の白よりも少しずつ青が濃くなっていく。


 大きな湖に出た。


 鏡の世界への入り口。そんな言葉が頭に浮かんでふとして消えていった。


 水辺は砂浜のようになっている。


 僕は、片足を水に入れた。


 冷たくて気持ちよかった。


 もう片方の足も入れた。


 暑さがやわらいだ気がした。


 少しずつ奥へ歩いていく。


 だんだんと水の中へ入っていく。


 

 ひんやりしていた。お腹が浸かると、寒いと感じた。


 焼けるような真夏の暑さが、懐かしくなった。家族で海に行った時のことを思い出した。ああ、楽しかったなぁ。あのときはまだ何も知らなかった。人間を、何も知らなかった。


 いつかこの体が揚がった時、この冷たい清流に洗い尽くされた清らかな身になるだろう。


 罪を全て流してくれる厳しく清らかな湖。

 今僕を飲み込ませる湖。


 いつかお前が海に出る時、この冷たさも一歩のたびに感じる命も、全て持たせていかせよう。


 心が二つになって、足が勝手に動くのを感じる。



 水のまとわりつく波間にあなたの顔を見た。


 弱い僕に優しくしてくれたあなたが、あなたの見せてくれた景色が、僕を囲む青色の中を埋め尽くして、全てが目の前に映された。


 あなたの声も、考えも、何もかも僕は受けとめきれなかった。あなたの幻の姿だけが青色の心に差す唯一の光だ。


 ああ、あなたに幸あれと願う。


 清らかな魂に幸あれと祈る。



 首まできたとき、空を見上げた。


 今日も無表情な薄い青さだ。


 それだけだ。


 もう何もいらない。





 清廉な水の中で豊かな青い水を見た。


 透き通る液体の大きな重さに僕は感動して、押し潰されていく。押し流されていく。水は青く蒼さを増し藍に近づいていく。冷たい陽の光が差したのは、湖底の青草の上だけだった。



 苦しみの中で上を見上げた。


 監獄の檻は、まだそこにあった。

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短編集【section4】 桜庭 くじら @sakurabahauru01

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