6月でした

 彷徨さまよっていた7月、4日午後2時、日差しが白くて綺麗でした。


 白い絵の具をきすぎた青い世界が、踏切の遮断機と信号機の上に開けていて、今日も無感情な顔をして見つめています。溜め息をつくことも思い出せなくて、頭のどこかでそんな感覚があったような、変な引っ掛かりだけが残る。


 歩き出すと雑に建ち並べたビルが束ねた新聞紙や古雑誌とか段ボールのようでした。よれたページの端に、小さく番号が振られています。その数字に意味はなくて、大きな数のほうに興味がいく人や、淡々と1から進めていく人もいます。それは、単に好みの問題で、やりたいようにやればいいと思いました。


 丘に沿って段々に作られた白いアパートやバルコニーのはみ出た家が少し絵本のようでした。坂を登っていきます。入道雲になれきれない雲がひたひたと空を浮いていました。丘の向こうには駅があって、記憶のなかの時刻表によればあと一時間後に出発します。


 夏が来ていた。


 道端につぶれかけたペットボトルが干からびていました。自動販売機がちょっと先にあったので、そこにゴミ箱があるだろうと思いました。拾おうとして、突然まったく違う思いつきが浮かんだせいで、頭の中全部を切り替えてしまって、伸ばした手は止まった。


 少しだけ憂鬱な日々が続いて、みんなつまらなそうな表情をひっさげています。時々いる酔っ払いだけが自棄やけに陽気だったり、泣いていたりします。この前の晩駅前の居酒屋通りに行ったとき、やたらとがやがやしていて、軒先に吊るされた電球がいくつも光っているのが暖かかったので、二十歳になったら、呑まなくてもたまに立ち寄りたいなと思った気がしています。


 今はやたらと平べったい空が、良く言えば穏やかに静かに広がっています。それもそれでいいのだと、ある意味独りにしてくれるのは、こんな風に何も言わない人だったりするのです(何も言わないので何を考えているかはわかりませんが)。


 そういえば、水が飲みたい。もうしばらく飲んでいない気がする。ただ意味もなくずっとそこら辺を歩いていたから、何も考えていませんでした。水路を張り巡らした噴水のある大きい公園が向こうにあった気がして、とりあえず駅へと、この固い坂をだらだらと登ります。


 渇いているのはこの街なのでしょう。坂道をおおうコンクリートがどこも焼けていて、少しも湿り気がない。歩道と車道を分ける白樺しらかばの植え込みがどこかカラカラで、家の壁は触っただけでもろく崩れそうな、くすんだ灰色をしていました。夏が来るのが、少しずつ水を遠退けるので、だから、海に行きたいんだろうなと思います。


 この空もそのうちクリアな蒼い色に変わるので、みんなが海に行きたくなります。夏は少しだけ色が綺麗になるような気がしました。そこら中に落ちている曖昧な薄っぺらな色がなくなる。プールもいい。それもちょっと汚い市民プールがいい。そういうところに、仲間内だけで行って貸切状態にしてしまえれば、人の多いウォータースライダーのような大掛かりなものがある施設より楽しい気がします。なんだかそんな思い出があるような気がします。


 丘の頂上付近に来ると、学校の敷地が下まで続いています。見上げると、小さな寝息が聞こえてきそうな教室のガラス窓がいくつも、クリーム塗装の壁にあります。あそこは少しだけ湿っているのです。気怠げでなんとなく時間が流れているのがわかります。


 雨が降り続いた6月の終わりに、どこかに行きたくなって、飛び出したまま、学校に行かれません。毎日遅刻したり休んだりしていたから、あまり変わっていない。缶をゆっくり傾けてジュースがこぼれていくような音が幾重いくえに重なってずっと外から聞こえていたので、傘を差して、出ていった、あの日のことを、6つ戻るのマスに止まった時みたいに唐突に思い出します。

 校庭も、校門も、フェンスも高架下の登校路も、どれも僕を拒んでいます。誰もが憂鬱な顔をする雨の日のなかで、あの時、僕だけが笑っていた。

 折り畳みの黒い傘の1本の骨が折れてしまって、それを気にせずに歩いていました。制服がびちょびちょになって、ぬめっている感覚がまだ肌に残っている。空はいつも僕を見つめています。あれだけが、いつまでも僕を離さない自然なのだ。


 坂の下の交差点から煉瓦造れんがづくりの旧庁舎が見えます。建物の向こうに屋根に穴の空いた廃屋が見えます。その隣に赤に緑にカラフルな二階建ての家があります。新しくできたアパートがあって、電気屋さんがあって、コンビニがあって、いくつもの建物が地上を埋めてしまっています。今、見えているものが言葉にしたものと違う、ちぐはぐした感覚になって、変な気分でした。


 青信号を渡り、旧庁舎の横を通り越し、コンビニに出たところで大通りに出くわします。飲み屋と、古い八百屋や文具店、本屋が低い軒先を揃えて並んでいます。右に曲がると、白くて大きな二階建ての駅舎の建物が夕焼けに浮かび上がります。


 僕はいつものように小さな疲れを感じながら、歩いていく。なぜか突然時間が流れた気がした。どうでもいいことを頭のなかで転がしているのは、何も考えていないことと同じなのでしょう。


 無心で歩けばたった一瞬みたいな距離で、あっという間に服屋も薬屋も通り過ぎ、駅ロータリーのタクシー乗り場にある銀色時計の下にいました。僕はすぐ横の階段を登り二階部分に行きました。そこには小さいコンビニ、切符売場、待合室、そして改札があります。


 ふと思い出して、ポケットを探ると、切符が入っていました。昨日買った、故郷の駅までの切符です。早すぎるような、でもそんなことはどうでもいいような変な迷いがあった。


 改札機に切符を吸い込ませると、ゲートが開き、プラットホームに降りる階段に繋がります。


 何気なく改札を抜け、何度も繰り返した習慣のように階段を降りて、薄暗い蛍光灯の灯るプラットホームに立つ。山の向こうに太陽が沈んでいく。赤さと稜線りょうせんの隙間に強い光が一筋の線をひいている。


 まもなく電車が参ります。


 その電車はホームに入ると同時に、車体は黒い影に変わり、窓を通して夕陽があふれださせた。黄昏の赤色が電車を包む透明な空気に染み込んで燃えている。遠くの稜線の白い残光だけが窓に重なって無垢な輝きを浴びせてくる。空がオレンジ色をしているのが、地面の暗さと同じくらいで、ただ残光だけが鋭く輝いていた。砂漠のち果てた車両。そんな言葉が思いついて、なぜか悲しくなった。


 曖昧になる黄昏のなかで、僕は何も考えず、透明になっていく空を眺めていた。

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