平穏とは何の変化もない日常のことである

カクヨミ

第1話 壁に耳あり障子に目あり

(このお話に出てくる人物達は実際にいると仮定して描いた者です。途中過激な表現がありますが、発言一つ一つがその人物の個性と思って受け入れて読んでもらえれば幸いです)









  ここはとある居酒屋。

 「オヤジさん、焼酎と角煮頂戴していい?」

 カウンター席の奥の奥、そこに腰掛けた平田陽一ひらたよういちは、厨房に居ながら丸椅子で新聞を読む店主に注文を下した。

 角刈りに鉢巻きをした店主は、陽一を一瞥すると膝の上に新聞を畳み、溜息とともに立ち上がった。

 「そんなに厨房に立つのが嫌ですか?」

 カウンターテーブルに肩肘を立て、顎を手の甲にのせ、陽一は細い目で店主を見る。

 その視線を手で一払いした店主は、どこか曲がった背中で料理の支度をし始めた。

 「おめぇ今何時だと思ってんだ。開店までの三十分、こっちにもルーティーンてのがあんだ」

 店主は銀色のお玉を圧力鍋に打ちつけ、緩慢な動きでコンロの火を付ける。

 「俺とオヤジの仲でしょ。それに店のドアはちゃんと開いたし」

 店主が振り返った。

 「おめぇと会ったのは昨日が初めてだ。だがおりゃ多分オメーさんが嫌いだ。ホラ吹きで馴れ馴れしい」

 それだけ言って店主は料理に向き直る。

 「あはは、まあいいや。角煮はカリカリじゃなくて柔らかくしてね」

 そう言って陽一は、店主がなんだかんだ出してくれた冷や水を口に含んだ。

 「こんちわー」

 厨房の勝手口が開き、アルバイトらしき金髪の女性が入ってくる。

 金髪の女性は入ると同時に、厨房で仕込みをする店主を見て立ち止まった。

 「店長、ひょっとしてあたし遅れました?」

 「いんや、客だ客。準備できたらオメー、焼酎だしてやれ。だが別に急ぐ必要はねぇ」

 「はーい」

 陽一はそんな会話をぼんやり聞き流しながら、あることに思考を奪われていた。

 「やっぱり首かなー俺」

 ボヤいた後に小さな溜息を吐き出し、陽一は煤けた天井を見上げた。

 そこで見つけた天井のシミの形が、角の生えた悪魔のように見えた。

 「お兄さんはサラリーマンなんですか?すごい退社が早いですね」

 悪魔が喋ったにしてはかなり女性らしい声だと陽一は思った。

 そしてその言葉で、今日仕事場で起きたトラウマが脳に映し出された陽一は、

 「黙れ悪魔め!ああそうさ、俺が油断したせいで上司はお怒りになり退社命令…笑いたきゃ笑えよ!なあおい?アッハハハハ!!」

 目を手で覆い狂った笑い声を出す陽一に、アルバイトの女性は平然とした態度で焼酎の瓶を男の目の前に置くと、

 「あんただよ、悪魔は」

 そう溢して、アルバイトの女性は厨房に戻る。

 厨房では淡々と手際よく仕込みをこなしていく普段通りの店主の姿があり、自然と胸が落ち着いた。

 しかし未だに男の笑い声は止まず、カウンターの奥の席には不気味な男が見える。

 「店長〜!まじヤバいですよあの客!あたしが話しかけたら悪魔とか言ってきて、ほら見て下さいあれ!」

 縋るようなら声で、アルバイトの女性がビシッと陽一を指差す。

 「そっとしといてやれや。色々あんだよ人間には」

 自分の話にあまり耳を傾けようとしない店主に女性は必死に食い下がる。

 「色々あって悪魔の幻覚が見えるなんて人間の終わりですよ〜!末期じゃないですかー末期ぃ〜」

 「いいからオメェ、さっさと裏手にあるビール仕入れて来い。それ終わったら机拭いて皿片付けとけ」

 投げやりに言う店長に、アルバイトの女性は肩を落とし、渋々勝手口に足を運ぶ。

 暫くして、アルバイトの女性がビール瓶のケースを持って出たり入ったりを繰り返した後、店内には食欲を掻き立てる良い匂いが厨房から漂っていた。

 「おし。これで準備は終わった、さすが手際が良いねェ」

 自画自賛の独り言を言って、店主は壁に掛けられた丸時計を見る。

 針はちょうど五時を指していた。

 「おーいアキ、準備中の看板裏返しといてくれ。開店だ」

 「はーい」

 机を拭いていたアルバイトの女性は手を止め、外へ小走りで駆け出していく。

 店内では、カウンターテーブルに突っ伏し意気消沈した陽一に、店主が濃い茶色に染まった角煮定食を差し出しているところだった。

 「ったく、だらしねぇなオメェ。これ食ってサッサと再就職先見つけりゃ良いだけの話だろう?」

 両腕に顔を埋めた陽一は、店主の優しい投げかけに、鼻を啜るような声で問いかける。

 「じゃあオヤジさん」

 「なんだどうした?なんでも言ってみィ」

 陽一は顔を上げ、店主の目を見つめる。

 「もし僕がクビになったら、僕をここで雇ってくれますか」

 「いやあそれは無理だろ。オメェのこと嫌いだし」

 「そんな私情で面接試験落としていいんですか」

 一仕事を終えて、会話を聞いていたアルバイトの女性も口を揃えるように言う。

 「私も嫌でーす。アルバイト代減るの嫌なんで、絶対雇っちゃダメですよ店長」

 二人の試験管から辛い審査を貰い、陽一の心はいよいよ限界を迎えたのかも知れない。

 陽一はそっと、角煮定食が載せられたトレーを目の前に置いた。

 ふんわりと柔らかな白米の匂い、豆腐と青いネギが入ったシンプルな味噌汁から立ち上る湯気、そしてその真ん中に座す味の染みこんだトロンとした角煮。

 小さな桃源郷を目にした陽一の目にはうっすらと涙が浮かぶ。

 「人間は冷たい、料理の方が温かいんだ……っ」

 感極まる陽一を横目に店主はボヤく。

 「それ作ったのオレだがな」

 店主は再び丸椅子に腰かけ、新聞を広げた。

 陽一は目の前にある食物をひたすら口に運ぶ。

 角煮に箸を伸ばしては白米を口にかきこみ、咀嚼しては味噌汁で胃まで流し込む。

 それを暫く遠くから見ていたアルバイトの女性は、タイミングを見計らい、落ち着いたところで陽一に声をかけた。

 「あんたさ、会社クビになったてホント?」

 自分の一つ隣の椅子に腰かけた女性に、陽一は口の中身を飲み込む。

 「いや、クビになったんじゃなくて、正確にはクビになりかけてる。大学を卒業して、やっとの思いで就職した会社なんだよ」

 それを聞いた女性は「ふーん」と相槌を叩いてから、思いついたように言う。

 「あ、じゃあ他の内定もらった会社に就けば良いんじゃん。もしクビになったらだけど」

 今度は陽一が「はー」と重い溜息を吐く。

 そして諭すような馬鹿にしたような声で陽一は吐き捨てる。

 「あのなー金髪ヤンチャガールくん、地元の底辺大学をギリギリ卒業した男にそんな何個も内定が貰えるとお思いでっか?」

 「なんなのその喋り方とムカつく渾名。やっぱアンタ嫌い」

 米粒一つ残さず綺麗に食べ切った陽一は、お猪口に一杯の焼酎を入れると、それを一気に煽った。

 そしてその勢いか、陽一は快活に口を開く。

 「そもそもな、そもそもの話し、俺がクビになるのはおかしいんだよ。俺は事実を言っただけ。いわば正義なんだyo〜」

 陽一はラッパーのような口調で、それっぽく手をアルバイトの女性に突き出す。

 たった一杯で出来上がった陽気な陽一に身の危険を感じながら、女は陽一の言葉を否定する。

 「馬鹿ねー。正義がクビになるはずないじゃない。それに分かったけど、低学歴のアンタが働く会社ってそんな大きくないでしょ。辞めたって別に変わんないだから、さっさと別の仕事探せっての」

 喧嘩を売るような発言をする女性を、陽一はキツく睨んだ。

 陽一は下から上まで、長い時間をかけて女性を睨む。

 「な、何よ」

 女性が思わず引くぐらい長い時間をかけて睨んだ後、陽一は「はっ」と嘲笑すると、焼酎をお猪口に注ぐ。

 「将来どこの馬の骨とも知れないモヒカンヤンキーと授かっちゃった結婚であろうア〇〇レが、、、俺に指し図するなら清楚系の黒髪ビ〇チになってからにしろ」

 「あんた酒飲むと性格最悪ね」

 悪態をつかれながら酒を煽る陽一に、今まで黙って新聞を読んでいた店主が、唐突に口を開いた。

 「くだらねぇな。正義ってのはそいつの主観だ。綺麗事ばっか唱えてる奴は周りに敵しかいなくなる。お前がどんな覚悟で自分の正義を口にしたか知らねぇが、会社という組織に属するなら身の振り方を間違えるなってことだ」

 依然として新聞を見ながら店主はそう言った。

 「わあーすごい。初めて見た。店長がお客に説教してる」

 空気の読めない発言の女性を無視して、陽一は暫く新聞越しに店主を見つめた。

 「別に自分の発言自体に後悔はない。事実を言っただけだから。ただ、それでクビになるのが納得いかないだけだよ」

 「かあーっこれだから若い奴は……一緒なんだよ。テメェは鎖で繋がれた犬だ、会社じゃな。その犬が真実だの事実だのワンワンうるさきゃクビを切る。それだけだ」

 「なんか考えが古いよ。店長カッコつけてるけど絶対ドラマの見過ぎだよ。そもそも会社で働いたことないじゃん」

 突然、陽一がカウンターテーブルをバンッと叩いた。

 その音に女性は驚き、

 「うわ!急にびっくりするなぁ、どうしたの」

 「僕はどうすれば良かったんだじゃあ!上司はいつも自分の息のかかった部下だけ周りに置いて、自分の言うことを聞かない僕等を端に追いやって排除して、自分だけの楽園を築いてるんだ。だから僕は」

 一息に言い放ち、興奮した様子の陽一。

 「ま、まあ落ち着きなよお兄さん。言い回しは疑問が残るけど、要するに自分の発言を肯定してくれるイエスマンだけ周りに置く上司ってことでしょ?そうゆう奴も居るって、ね?」

 女性は困惑しながらも少し宥めようと頑張る。

 女性が陽一の肩に手を載せようとしたその時、店内に入店を告げる鈴の音が鳴り響く。

 女性は直ぐに体を扉に向け、入ってくるお客様を出迎えた。

 「いらっしゃいませーお客様、二名様でよろしいですか?」

 入ってきたお客二人はどちらもスーツ姿なのだが、一人はすらりとした体型の凛とした女性だった。そしてもう一人の眼鏡をかけた猫背の男性は、いかにも新入社員という雰囲気の部下であった。

 「ええ二名で。予約していないのですが大丈夫ですか?」

 スーツ姿の女性がそう尋ねた。

 「ああ大丈夫ですよ、うちは年中満席なしのお店なので。テーブル席にご案内しますね。」

 「今月のアルバイト代は減額だな」

 店主がボソッとそう言ったのを、二人の客を席まで案内するアルバイトの女性には聞こえなかった。

 スーツ姿の女性が案内された手前のテーブル席に座ろうとしたその時、カウンター席の奥にいる客に気づいた。

 「平田くん?」

 その声に反応して、眼鏡を掛けた男もそちらを見ると、

 「ああ、平田だ」

 スーツ二人の視線が背中に向けられる中、陽一は、

 「悪夢だ」

 頭を抱え込んだ。

 この状況を店の二人だけが楽観的に見守っていた。

                   続く。


 

 

 







 





 



 

 


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