化けの皮

大学でなされた話は卒業試験の難易度を緩和するであろうというものだった。

元号が変わったのもちょうどその年であり、その区切りで全員を卒業させると言った方針に変わったのだと、仲の良かった別の研究室の教授と助教授に聞いた。

そこでされた話は過去問を数年単位に渡って勉強すれば確実に合格できるレベルのものだとも聞いた。と言っても、その問題を解くのだけでもそれなりに時間がかかる。


それでもやるべきことがはっきりするのは気が楽だった。

過去6年間に勉強したであろう範囲の重要な部分を、アトランダムに出す形式よりは遥かに対策がしやすくなった。

数年分と聞けば気が遠くなる人もいるのかもしれないが、薬剤師国家試験の対策など、過去10年分の国家試験を見直すところがまずスタートだと言われている。

ある意味試験の予行演習の様でもあった。

もちろんその勉強が無駄になる事もなく、当然試験対策にも繋がってくる。

その事が決まっただけでも、萎れかけていた自分のの心に活が入った。



バイトを始めて半年が経とうとしていた、相変わらずバイトは忙しい。マンパワーが足りていないから全く楽にはならないのはわかり切っていた。

店長に話をしたこともあったが、バイトを増やす気はないと言った様子で聞き入れてもらえなかった。

客がイライラしている様子が目に見えてわかったが、それはもう店長のせいだと割り切ることにした。


それでも何とか回そうとしていくうちに、他の店舗だったら一人で回せるくらいには効率化されていた。

客への礼節は忘れないように、見えないところではドタバタする、白鳥の水かきのようなスタイルが基本になっていた、他の店舗ではそんなことをする必要はなかった、やはりこの店の問題という事だった。


Fさんもだいぶ変わっていた。普通に会話が通じるし、他の高校生バイトが言うには悪臭の件が少しましになっているとのことだった。

私は鼻があまり良くないので、その変化に気づいていなかったが、言われてみると確かに臭うことが減ったような気はしていた。

よく話をするようにもなったし、なんだか笑顔を見ることが多くなったように感じてもいた。

最初は私もFさんとは距離を置くべきかもしれないと思っていたが、よく話しかけることでここまで変わったとすれば、人と会話をすることの大事さを私はFさんから教わったのかもしれない。


以前は、二人のどちらかと一緒の時間が地獄の様に感じるものだったが、Fさんとは気づけばストレスなく一緒に働けるようになっていた。

談笑もするし、困ったときは助け合うし、入った直前にはこんなことになるなんて自分自身が想像していなかったからでこそ、その変化を著しく感じていた。

自分で環境を変えたのだと思うと嬉しくもあった。

人は変われるのだと知った。





その日はCさんと同じシフトだった。

逆にCさんは何一つ変わらないどころか、私が話しかけ続けると調子に乗る様になっていた。

さぼりの回数は、店長から注意された直前は減ったもののすぐに元通りになり、それどころか助長されてそのころには回数が増えていた。

Fさんは40過ぎくらいの男性だが、彼が変わることが出来たのだからこいつも変われるはずなのだと心の中で思っていたが、何度やっても変化を感じない私はいつしか彼と全く言葉を交わさないようになっていた。

話すだけ無駄だと切って捨てるように考え始めた。そのころには分からないことも無く、誰かに聞く必要も無く、何でも一人でできるくらい厳しい環境で叩き上げられていた。

助け合うことが出来ないなら、このカウンターには私しかいないのだと考えるようになっていった。

体積が横にでかいCは、物理的には無視することが出来なかったわけだが。


その日は盛況だった。客がひっきりなしに来る。

商品を前に出す暇さえなく、レジの前には常に何人かの客が並んでいる状況が続くような感じだった。

一斉に大量の客が来るわけではなく、常に5人くらい店に人がいるような状況が続く中、Cは私に言った。

「ちょっと、たばこ休憩行ってくっけんね、大丈夫やろ」

流石に正気を疑った、客が一人二人ならまだしも5人はいたのだ。

「いや流石にないでしょ」

私はそのころには強気に出るようになっていた。

Cは善意を踏みにじる男だと確信していたので、私の言葉も自然と強気になっていく。弱弱しいところを見せれば食い殺されるのだと考えたからだった。

「じゃ、じゃ、いってくるけんね」

私の静止の声を振り切り、Cは逃げていった。

その場から逃げたのだと確信した。確認を取って、大丈夫という言葉を引き出そうという魂胆が見え見えだったが、当然私が大丈夫だというわけがない。

かといって追いかけて店の外に出るわけにもいかなかった、店の中に無人の状態を作るわけにもいかず私はレジで客の応対をしなければいけなくなった。



そして客の数が減ったのを感じるころにCは戻ってきた。

私はこの時初めて分かった、Cは店の中を観察しながらサボっていたのだ。

本当に人手が必要な客が多い時間に逃げ、減って楽な時間に戻ってくる。

その魂胆に私のイライラはだいぶ募っていた。

頭悪すぎないかと。客が多いからレジが複数いる必要があるのに、そこでさぼったら何のために働いているだと、人類が解明できない生き物を見ているようで、少し怖くもあった。どうやってこれはいままで人間世界に擬態していたのだろうかと本気で不思議な気持ちが溢れていた。


その日の夕方、また客足が多くなった。

夜のシフトは2,30分間隔で次の人と交代するようなシフトになっており、Cが先に退勤することになっていた。

何もろくに仕事してないくせに変えるときは時間ぴったりに帰るCに私は、控えめに言ってもはらわたが煮えくり返るような思いだった。


「あの、すみません、まだでしょうか私のは」

そんなCが帰ろうとしているとき、レジ前にきた客が私に向かってそう言った、若い女性だった。

「あ、はい、えっと、申し訳ありませんどういったご用件でしょうか」

話を聞いてみると、店頭に設置してあるマルチメディア端末から出した、ネットの予約の受付がまだ終わっていないのだという。

私はその客の顔はその日初めて見た顔だったし、対応していない客だとすぐにわかった。

今すぐに帰ろうとしていたCを捕まえる。彼以外に対応したバイトがそもそもいないのだからすぐにわかった。

「ちょっと待ってくださいCさん」

「なんちゃあ」

帰る時間になって上機嫌だったのかもしれない、そんなところを引き留めたCはいつにもなく不機嫌な声色だった。

「この客がネット予約の受付終わってないって言ってますけど、受けたのCさんですよね」

「ああ、それなら後ろの棚にある」

レジ越しに交わされるこんな会話を、その客は不思議そうに眺めていた。

私もおかしいと思っていた、なんでこんな状況で話をしているんだと。

だけど客が最優先だと思って振り返ってみたが、そこに書類の類は一切なかった。

「ないんですけど、書類」

ネット予約の書類は再発行ができない事を知っていた、もしなくしたとなれば全額保証も免れない。

「おれぁしらん、そこに置いたんだ」

女性の客を挟んでCは私にそう言った。気弱そうな女性がおろおろしているのが横目に入った。ただ注文をしただけの女性を困らせていることに怒りは頂点に達した。

「あぁ、なに言ってんだお前、そもそも仕事くらい最後までやれよ、いつもたばこたばこいってサボってんじゃねえよ、やるべきことくらいやって帰れ」

その日サボってたことも相まって、私にしては相当強い言葉を吐いていた。一度は秘めようとしていた怒りが、その無責任な言葉でまた茹ってきたのだ。

私の憤りもその時がピークだったのかもしれない。


「なんちゃあきさん、ガキが舐めてんのか」

普段のCのようなへらへらした様子が一転した、帰ろうとしていた私服のままカウンターの中に入ってくる、カウンターの出口は一か所で逃げ場はない。

私は内心では強気だったが、普段から頭をへこへこ下げるようなびびりだ、突然入ってくるCを前に体が硬直する。

そして制服の襟元をつかんでカンターの前まで引っ張り出された。

信じられない力で引っ張られ、私の手は恐怖で震えていた。

「ガキが、舐めたこと抜かしてんじゃねえぞ」

既に頭の中ではパニックが起こっていた、かなりいい年した大人が、一回りくらい年下の男の胸倉つかんで引っ張り出してくる、全く予想もしていなかったことでどうすればいいのか分からなかった。


カウンターの前には客がかなり残っていた、並んでいた3人くらいの客はこちらを見ている。

大の大人が20中盤くらいに見える大学生の胸倉をつかみ、カウンターの前に引っ張り出してくるのだ。異常事態に客が動けなくなるのもわかる。

私は引っ張られながら、殴られるという考えだけが頭にあってたからでこそ、全力でその胸倉をつかんだ腕を抑え込んでいた。

実際抑え込んでいなかったら殴られただろうという動きを見せていたが、思っていたよりも力が弱く、普通に抑え込めていた。

『あれこいつ実は弱いんじゃ』

頭にそう過ぎったが、だからと言って何ができるのか、身体全体を抑え込もうとすればそれこそ殴られるだろうし、そもそもこちらから殴るわけにもいかない。私は警察の厄介にはなりたくなかった。

「おめえ、おれあヤクザの知り合いがいっぞ、舐めたこと抜かしてんじゃねえ」

その硬直状態に焦ったのか、Cから出てきた言葉はどう見ても脅迫だった。

今どきヤクザの関係者なんて言うだけで警察が動くことも知らないのだろうかと、常識外の人間の存在は少し滑稽でもあった。

そして普段のCを知っているからでこそそんなことはあり得ないと一瞬思い、だが思い直す、果たして本当にそうだろうかと。


まともな人間が一瞬の感情で周りが見えなくなるまで激昂して、自分より年下の男をコンビニのカウンターから引っ張り出してくるだろうか。

ある意味適正な男なのでは、そう思うと怖さを感じた。

正味潔白な身の上で、そういった関係の人間となど関わったことも無い。

知らない世界は興味があるが、アングラな方面にはいくら何でも恐怖が勝る。

下手に刺激して本当に関係者がいたらどうなるだろうか、そう思うと今度は違った意味で動けなくなった。

腕を抑え込んでいるのでCは私を殴れない、だけど私は抑え込んでいるので他に行動は出来ない。

客は見守るしかない、ひょっとすると野次馬的に見ていたかもしれないが、止めに入れば殴られるだろうと思ったから、むしろ出てこなくて助かった。


「な、なにやってんですかー」

緊張状態を破ったのは交代のバイトだった、実に10分くらいこの硬直状態が続いたことが分かる。

「ふん」

Cは捨て台詞を吐いて店から逃げるように出ていった。

事情を聞く隙さえ与えぬように、逃げていった。

私は少しだけほくそえんでいた、こんなことやってバイトなんか続けられるわけないだろと。

そのあとは何事もなかったかのようにまたコンビニの営業は続いた。

ひと悶着あったかどうかなんて話が、元からなかったように思えるほど自然な雰囲気だった。

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