その人の民度
5日目が過ぎたころ、私は同じシフトに入ることが多いFさんに何かと教わりながらもバイトを続けていた。
店の忙しさはいつまでも変わらない、棒が足になるまで立ち続けることを強要されている。
数日働いていくつか分かったことがあるが、余りよろしくない事ばかりで、特にこの客がごった返す時間でさえバイトが2人しかいないという事実は頭を悩ませていた。
そしてこの店のこの時間、商品の補充もしなければいけないということも。
そして結局あれから、研修ビデオを見せられることはなく私は実地研修かのようにこの繁忙店で働いていた。
そしてこの店のこの時間、商品の補充もしなければいけないということが、忙しさを逼迫してくる。
客が多いという事は売れる商品も多いという事、特に飲み物が無くなる速度は尋常ではなく、まだ何も教わっていない私は何もできないこともあり、Fさんはひっきりなしに冷蔵庫の裏へと駆けていた。
私は教わっていない仕事には自分で手を出さないように考えていた。だからでこそわからないことがあればすぐに隣の人に聞いた、と言っても今のところFさんとしか一緒になっていない。
分かってもいないのに出来ると言う方が問題であり、そこでできなかったときの方があとが怖い事は、以前のバイトで嫌という程思い知っていた。
何も教わっていないという事実が、私に人を頼るという行為を強要させていた。
本当は自分でできる事なら自分でやるし、誰かの作業を止めてまで聞くことに申し訳なさも感じていたが、0が1になることはない、教わらなければやり通すことも出来なかった。
夕方の6時ごろ、気が付くと私の後ろに5人は客が並んでいた。
その時冷蔵庫の方に行っていたFさんを呼ぼうと、教わった通りにバックヤードから冷蔵庫の方へと声をかけたが、それでもFさんは出てこなかった。
冷蔵庫まではそこそこ距離もあり、何よりいまレジに並んでいる客を前に離れる方が怖くもあった。
だから仕方なく、私は出来る限り早く丁寧に客を捌いていた。
冷蔵庫には分厚い扉がある、おそらく声が届かないのだろうと考えながら。
「おい、おせえぞなにやってんだこの店は」
怒号が店内に響いた、その瞬間ざわめいていたはずの店が一瞬静かになる。
声の主は並んでいる客の一人だった、スーツを着ている30後半くらいの男のように見える。彼はレジが2台あるのに一人いないのにも気づいているようだった。
「大変申し訳ありません」
客の方へ向かって私は勢い良く頭を下げた。怒るのも当然の状況だと。
自分に出来ることはやっているつもりでも、マンパワーは覆せない。
「おまえじゃねえんだよ」
そんな声が返ってくると思ってなかったので、予想外過ぎてぼーっとしながらも、商品をバーコードリーダーで読み取っていた。また一瞬店が静かになった、今度は別の意味でだろう。
5日もバイトをすれば、何か他の事を考えながらバーコードを通したり、袋に入れるくらいは訳もなくできていた。そのくらい同じ行為を反復行動させられていた忙しさがあっての話だった。
静かになった店内にバーコードの読み取り音がよく響く。
私は客が怒るのも当然だと思っていた、だが怒り狂っているというわけではなくある程度の冷静さもある男性のように見える、その方が逆に怖くもあった。
そんな理性が働くような人がキレて大声を出しているのだという事実は、ただのチンピラが絡んでくるよりも冷静な怖さがある。
Fさんさっさと戻って来いと心の声では叫んでいた、だが私の声は物理的にもスピリチュアル的にも届かない。
そもそもFさんは冷蔵庫内の飲み物の隙間から店内が見えるはずである、私にそう説明をしていた。つまりさぼっている可能性が高い。
そう思っていると冷蔵庫からFさんが出てきた。何も悪びれる様子もなく、お待たせしましたという声と共に。
その様子に件の客はキレた。
「お待たせしましたじゃねえ、客をこんな待たせて何やってんだおまえは」
私に向かって言った『おまえじゃねえんだよ』という言葉が本気ではなかった事をその時知った。
怒り心頭といった様子のサラリーマンは、我慢していた怒りを本命にぶつけているようにも見える。
「あー、はい」
「はいじゃねえんだよ大体おまえは研修中のバイト置いてどこ行ってんだよ、まだ何も教わり切ってないバイト一人に任せてんじゃねえよ」
彼はスーツを着ていたが、恐らく店の関係者などではないだろう。もしそうならこの場でいかったりしないで本部に報告するだろう。それにカバンを持って何度も時計を確認もしていた、ただのサラリーマンに間違いない。
そんな無関係な人間が自分の為に怒っていると思うと少しくるものがあった。
待たされているという本人の怒りもあるだろうが、それ以上のものを感じていた。自分の中でまた、ネットとリアルの乖離していた客のイメージが変わっていた。
ふと私は思った、どんな立場からでも強力な意見を通せるお客様が、神様だと言われるのもあながち間違いではないのかもしれないと。
一通り怒りを吐き出していると、落ち着いたのかその客はFさんにレジに入れと命令した。Fさんの方にも客が並ぶと、渋滞は嘘のように解消されていく。
経験の差かFさんの捌く速度が速く、私の列に並んでいた、怒り狂っていたサラリーマンがまだ順番になっていない状態で、Fさんのレジは手すきになっていた。
「お待ちの方こちらへどうぞ」
Fさんが件のサラリーマンへと声をかける。まだ私の列にはまだ客が3人残っていた。
「お前には頼まん」
その提案を頑として受け付けない姿勢のサラリーマン、私は内心、彼は急いでいたのではと思ったが、何かしら考えがあるのかもしれないと尊重することにした。
そしてそのまま会計をする段になると彼は言った。
「すまんなどなっちまって、君は関係ないのに」
烈火のごとく怒り狂ったサラリーマンはいなくなっていた。
「いえ、お客様のいうこともごもっともですので」
本心から偽りなくそう言った。さっさとFさんが冷蔵庫から出てきてレジに入れば、こんなことは起こらなかったのだから。
「君はここに入ってどのくらいになるの」
ただの世間話だ、だがあれほどこちら側の身になって考えてくれるこの人なら、包み隠すのが不義だとも感じた。
「まだ、5日目ですね、でも頑張ります」
「ひでえな」
顔をしかめるその男性は、塗り替えられようとしていた私の常識を矯正してくれた。
『いややっぱおかしいよなこれ』
心の中で呟いた言葉が反芻して、自分を保つ糧となっていった。
「大変だろうけど頑張って」
「ありがとうございます、またお越しくださいませ」
私は頭を下げて、本心からそう言った。
居酒屋でバイトをしていた時もそうだった、店員よりも客の方がまともなことが多い。
私はネットで調べて知ったつもりになっていた、世の中にはクレーマーが溢れ、一挙手一投足にケチを付ける人間がいるのだとびくびくしていた。
だがこんなことが今までの事含めて3人も4人も続けば、本当は記事などを書いていた人間の方に、何かしら問題があったのではないのかと思い始めた。
もっと胸を張って堂々と仕事に挑もう、自分がやらかさなきゃ客もそうそうキレたりはしないだろうと思うようになった。
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