バイトの闇

店に入って予約表を確認すると、超がつく大型の予約客が入っていた。

その数はめったに見ない奥の座敷を全て使うほどの客の数で、嫌な汗が額から流れ落ちた。店の仕事は大体把握してきていたので、既に自分で考えて行動できるようになっている。予約客は一度に大量の飲み物を頼むことが多いというのが、ホールにとって絶対忘れてはいけない法則でもあった。

それだけの人数になると飲み物を一人で運ぶことも不可能なのだ、一度に20個以上の注文を一人で捌くには人間の腕は日本しかない。

大きなお盆に乗せてもせいぜい一回7個程度、ビールグラスでさえ一度に14個という人間離れした運び方をRさんがしていたことがあったが、それなりに働いても、とてもマネできるような芸当ではなかった。

最初の注文はその時いたRさんと私と女子高生のSさんで手分けして用意したことで、滞りなく送り届けることができた。


私が他の客から飲み物の注文を貰ったときだ、どうやらSさんは再び予約客から注文を貰っていたらしい。

「すみません、手伝ってくれませんか」

私にそう言ってきた。

「とりあえずこれ先に出さなきゃいけないからさ」

私は先に受け持っていた注文があったので、そちらを優先してからだと伝えると。

「こっち手伝ってくれませんか、そしたら自分がそっち行きますんで」

Sさんは手伝ってもらうかわりに自分が仕事を代わりに引き受けると言い出したのだ。

その時のSさんは食い気味にそう言ってきたので、ひょっとすると量が多くて一人だと間に合わなくて遅れているのかもしれない、私はそう考えた。

店のルールとしては注文は受けた順にこなすことと言われていたが、バイトの仲を悪くする方が長期的にみると良くないことだなと、彼女を手伝う方を優先することにした。



運び終えるとインターホンが鳴り、行く先々でまた注文を受けるその繰り返しだった、なんてことはないいつものバイトを繰り返しているだけで、心に余裕があったのか、頭の片隅には途中で変わってもらった飲み物の注文の事がちらついていた。

だけどその件はSさんがやってくれると言ったことを思い浮かべて、他の客の場所へと奔走していった。


やっと落ち着いて厨房に戻ってこれたころには、既に20分くらいが経っていた。

「おい家風ちょっとこいやぁ」

大将の顔がカウンターから厨房をのぞき込み、その罵声が厨房内に響いた。

少々荒いところがある大将ではあったが、そう言った声を出すことは基本的になかった。これは相当やばいことをやらかしてしまったのだと悟った。

慌ただしかった厨房は一瞬で調理器具以外の音がしなくなり、キッチングループの和気藹々とした談話もどこかへと消えていた。

「あの席の飲み物の注文受けたのお前だよな、まだ来とらんって言うとるぞ」

カウンターまで来た私に向かって、大将が指を差した方にいたのはさっき飲み物の準備をSさんに変わってもらった場所の席だと私はすぐに気づいた。

「あの、あそこの注文は」

「言い訳なんかするな、今すぐ謝りに行け」

私の弁明は遮られた、こんな理不尽があるだろうかと思ったが客にすればそんな事情は知ったことではないだろう、すぐさま客のところへと向かった。

「大変申し訳ありませんでした」

どうして自分が謝っているのだろう、確かに客にとっては誰が持ってくるかなんて問題じゃない、だけど持って行くと言ったのはSさんだったはずなのに。そう思いながらも頭を下げて謝っていた。不満は抱いていたが、一番不満に思っているのはきっと客だろうと、申し訳なさといらだちと半々を心に抱えながら。

「ああ、いいよいいよ、僕はそんなに怒ってないから、忙しそうだからね、落ち着いて頑張ってね」

私の方の部分を見た客は、意外と怒ってはいなかった。それどころか大将の罵声はその席まで届いていたらしく、むしろ恐縮している様子でさえあった。

私の肩にはいまだに研修中の腕章があった、外していいと言われるまで付け続けろと言われていた、もう既に5か月は経っていたはずなのに。

そう言えばこれいつまで付けているんだろう、もう半年が経とうとしているのに、まだ研修中なのだろうかと、色々と頭の中で考えないようにしていた不満が溢れようとしている。

その客にはすぐに飲み物を持っていく、するとありがとうの一言で許してもらえたのだと思った、いや、本当に怒っていたわけではないのだろう。

客は何かと私の腕章を見ては様々なことを言ってくれる。中には私の事情を聞いてきて、応援しているといった客までいたほどだった。


働くまでずっと思っていたのはお客様は荒ぶる神様の様なものだと思っていたのだ。接客業と聞けば何かと嫌な面ばかりがあげられ、その環境の悪さを取り上げる記事はネットに云万とある。

だが現実はどうだろうか、私は客よりも、店員の方が怖くなっていた。

そもそもSさんは代わりにやると言ったのだ、信じた私が馬鹿だったとでもいうのか、疑心暗鬼の気持ちは客ではなく、店員に集中していた。



厨房に戻った私は奥さんに事の顛末を聞かれた。

「あんたなにしたとね」

「いえ、あの飲み物の注文が来てないというやつで、でも、それも理由があって」

私は言いたかった、する人間は変わっていたのだと。

「言い訳は聞かんよ、出してないなら出してないですみませんやろあんた」

「はい、すみません」

こちらの話を聞く様子は全く無かった、どんな事情があるのかさえ聞こうとせず、一方的に駄目なやつだと烙印を押される、それは私が最も嫌う事だった。



怒りは最高潮に達そうとする中、ぶつぶつと呟いていた私にRさんが近寄ってきた。

「なんかあったんですか」

「いや、ほんとは自分あの飲み物作ってたんですけど、Sさんが代わりにやるから団体客手伝ってくれって言われたんですよ。それなのに、その話をしようとしても大将も奥さんも聞く耳もたないし、Sさんに至ってはだんまり決め込んでて」

私の中で渦巻いていた不満があふれだそうとしていた。

「ほんとドンマイです、ここの店の人らちょっとかたくなに話聞かない時もあるんで、あんま気にしない方がいいですよ。それにSさんはちょっといろいろめんどくさいんで」

そう言ったRさんもSさんについて色々と話を始めた。

彼女は私がバイトに入った段階で1年が経過していたらしいが、バイトがするはずの仕事をいくつも覚えていなかったのだという。

つまり人に仕事を押し付けて楽をするタイプの人間だったというのである。

「だから自分彼女のお願いは基本聞かないようにしてます、予約客とかはしゃあないですけどね」

長くいるだけで信頼を得ているというSさんは、割とさぼりがちな人間だが、女の子だという事や、私のようないじりやすい人間がいると隠れ蓑にするらしい。


そしてその日の賄には、当然のようにデスソースが用意されていた。

聞く耳は一切持たない、なのに何の非もなく辛いものを食べさせられる。

Sさんは既に帰っていた、店が忙しくなって話す暇はなく、更に私に遭遇する前に逃げたようにしか見えなかった。

これを本当に食べるのは自分ではなくSさんだったはずなのに、なぜ私はこれを食べるのだろうか、そんな考えも一口食べると痛みに消えていく。

残っていたのは恨み辛みだった。真面目に丁寧にを心がけ、仕事に真摯に向き合っていた私が、年下のガキに良いようにおちょくられたのかという気持ちと、こちらの話を一切聞かずに私だけを責めたてる店の人間に、言葉が通じないのではないのかと思わせるほどの理不尽さ。

不満だけが積もり積もって山となろうとしていた。



それでもまだ辞めなかったのは、自分の為、事情を知って応援してくれると言った客の為、Rさんが話を聞いてくれたことがあった。

段々と冷静になっていくと、自分にも悪いことがあったかもしれないと思うようになっていた。大将は事情を知らずとも、客に迷惑をかけたのだと考えれば怒り狂うのもしょうがないのだろうなと。

私も頭に血が上っていたのだと気づくと、大将の事だけは許せるようになっていた。

ただ、奥さんに対する不信感は、もう元には戻らなくなっていた。

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