抜け殻に影

「おい家風なにぼーっとしとんだ」

ケツを蹴り上げられた。がたいの良いYさんから繰り出された軽い感じの蹴りだったが、それなりに痛かった、だがそのおかげで現実に戻ってこれた。


試験がなくなったと言われた日から、私は目標を見失いつつあった。進級試験のその日を目標にしていたからだった。ゴールである国家試験がなくなったわけではなかったが、その頃の私は最悪でも卒業だけはしなければいけないと考えていたのだ。

例え試験に合格できなかったとしても、卒業さえしてしまえば何度でも挑戦できるからだ。

そんな2年も先の事を見越して、計画を立てて頑張れるような性格ではなかった。


毎日やっていた勉強もそうで、進級試験を合格するための勉強をしていた。それが引いては最後の試験での合格に繋がりはするが、その勉強だけで合格できるわけではない。突然大きくなった目標に、いきなり消えた重圧に、私の日常から緊張と張りが消えてしまった。



完全に私は抜け殻になっていた。その日はとにかくミスが多くなっていた、飲み物を間違えて作ったり、注文を間違えて取ったり。もちろんその補填として私の給料が差し引かれ、間違えた料理はそのまま私の賄へと変わっていった。


賄の時間になると、奥さんはどこからともなく赤い瓶を持ち出してきた。半年近く働いても一度と見たことが無く、また料理に使っている様子も見たことが無い、禍々しい色をした瓶だった。

「ミスが多い人間には罰があるのがここのルールです」

聞いたことのないルールだった、確かに今日は今までにないくらい失敗をしていたが、いままでそのソースを使っているところも持ち出しているところさえ見たことが無かった。

「暫く手に入らなかったからね、家風あんたが最初だよ」

どうやら切らしていたらしいことが分かる、そして入手するのも少し難しいものだということも。


そう言って持ち出した赤い瓶から、スプーン一杯分の赤い調味料が出てきた。

瓶をよく見てみると、デスソースという名前が書かれている。その存在だけは知っていた、世界で一番辛い香辛料を使った調味料だという話だ。

ただ聞いたことがあっただけで、実物を食べたことはおろか見たことすらなかった。

小さい銀色のスプーンの上に、浸食でもしそうな禍々しく感じる赤黒い色の調味料が載せられ、こちらへと差し出された。

え、これひょっとして直接食えというのか、料理に混ぜるわけではないのか、私はその物体に恐怖した、未知の調味料だ、色々と事前情報をネットでこそ見たこともあるが、縁のない話だとあまり気にも留めてはいなかったのだ。


「ほら、一気に、水は駄目だからね」


え、水が駄目、流石にそれはおかしいのではないのか。そんな考えが頭に浮かんできた。それでも私に失敗が多かったのも事実であり、何より私には辛い物にある程度耐性があった。

それは母が辛い物が好きであり、よくそう言ったものを食べさせてもらうことがあったからだ。だから私が好きな食べ物にはタイカレーが入っている、だが辛いから入っているのではない、おいしいから入っているのだ。

私はその罰を素直に受け入れることにした。そもそも拒否などさせてくれそうにない人たちだった。


デスソースの乗ったスプーンを一思いに口に入れて、こすりつけるようにその全てを舌の上に残してきた。貴重な調味料だから残すなとも言われていた。

それは味ではなく、痛みだった。口内中を駆け巡る痛み、食べ物ではなく危険物だと脳が認識した。

ひょっとすると味があったのかもしれない、だが痛みしか感じないのだ、圧倒的な痛みの前に味覚がシャットダウンされていたに違いない。唇に当たらないように入れたはずなのに、唾液と混じって触れてしまったのか、唇も洒落にならないほどびりびりと痛む。

顔を伏せて、地団太を踏む、20代後半の男がそんな無様な真似をするほどに、その調味料の刺激は恐ろしかった。

そして脳裏によぎったことは、罰金を支払うという罰を受けているのに、なぜこんな追加の罰まで受けなければいけないのかと。

顔を上げてみた、そんな私の様子を見ている奥さんは嬉しそうな顔をしていた、あれほどムカつく顔はなかっただろうといえるほど、喜色満面な笑みを浮かべていた。


その瞬間、ひょっとすると自分は何か勘違いをしていたのではないだろうかという考えがよぎった。アットホーム、和気あいあい、それは実は自分が勘違いしていただけではないだろうかと。

私は辛いのが大丈夫だが、そんな私でさえこんなリアクションを取ってしまうほどのもの、もし辛いのがダメな人間だったとしても食えと強要されていたのも間違いないのだろうと。

それはもはやただのパワハラではないのかとも。


私は昔から何かと、人に嫌がらせを受けやすい人間だった。小中高と似たような事をされてきたが、大学にこそそう言った人間は見なかったから頭から消えていたのかもしれない。

これはひょっとして馬鹿にされているのではないのかという考えを、そのスプーン1さじのデスソースは呼び覚ました。


私は賄を食べる時間ずっと苦しみ、やっと水を飲んでいいと言われると何杯も何杯もがぶ飲みしたが、それでも和らぐ程度で痛みが消えることはなかった。

牛乳や氷が辛い物には有効だということも知っていたが、それらは商品だからと許されはしなかった。

その日中、私は唇に痛みを抱えながら、店の中をかけずりまわることになった。



『お前には期待しとるんよ』

そう言ったのは大将だった。

『もっと頑張ってもらわなきゃいけんけんね』

そう言ったのは奥さんだった。



その言葉を、私は疑い始めた。それはただの方便ではないのかと、実際は都合のいいただのアルバイトを、おだてて使っているだけなのではないのかと。

そして何より、デスソースを食べた後の、奥さんのあの笑顔が私の頭から消えることはなかった。

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