出会いたくないと思っていた客

ひと月近くも経つと仕事にもだいぶ慣れてきた、それでも不器用な私は大将や厨房で働くKさんに、ケツを蹴り上げられるように急かされることもあった。だがそこに悪感情のようなものは感じられず雰囲気としては和やかなもので、私も笑みを浮かべつつその対応に追われていた。だんだん居心地がいいとさえ思えてきていた。

仕事の忙しさこそ変わらなかったが、そのころには飲み物の組み合わせもだいぶ覚えてきて、料理を運ぶ失敗などもほとんどなくなる。

一週間の営業日のうち、6日間ほとんどを6時間以上バイトに充てられていた。覚えるのは当然だった。


仕事をすることでお金が入ったときは嬉しくもあったが、そこから殆どの金を学費に持って行かれ、最低限度の自由なお金だけが私の手元に残る。

消えたお金を時間に換算するとやるせない気持ちで溢れんばかりだった、留年というものに実感がなかったが、いざ実物として目の前に突き付けられると、私は自然と大学の勉強についてよく考えるようになっていた。

薬学部は卒業して終わりではなく、そこから国家試験を受けて合格が一つのゴールであり、そこから先も毎日勉強漬けの日々が、それこそ永遠に続いていくことになる。1日1日が大切に感じられるようになり、いやいや勉強をするのではなく、自主的にやるようになっていた。


そもそも大学を続けるためのお金だったはずなのだが、初めて1週間は毎日疲れ果てて、とても参考書を開くような気持ちなど起きないのだったが、徐々に仕事に慣れた証拠だといえるのではないのだろうかと考えていた。




ある程度仕事も覚え、店の中でもそれなりに使える人間になったと思っている私は率先して動くようになっていた。

バイトを始める前に感じていた、全部できるだろうか、覚えられるだろうかといった不安は行動に移すごとに徐々に減っていき、そのころには、客の応対以外は何も考えずに体が動くような状態になっていた。


「おーい家風、カウンターの対応してくれー」


それは大将の声だった、カウンターの客は基本的には大将が行うことになっていたが、料理の注文などはホールの人間が対応している。

ただ、その時に指名されるといったことは珍しい、誰か注文を聞いてくれという言葉はよく聞いていたが、名前で呼ばれたことは初めてだった。


「はーい……失礼します、ご注文を承ります」

声をかけて近寄る、遠目に見た時は坊主頭の男性がそこにはいた。

「あれ、家風じゃん、なんでこんなとこいんの」

その客から思わぬ声を掛けられた。何故なら下の名前で呼ばれたからだった。

名札に苗字は書いているが、下の名前は書いていない、つまり私を知っている人間だということになる。

中学を最後に高校大学は遠くに行っていたため、その頃の知り合いがいるはずはなかった、中学くらいの知り合いだと思うと背中に冷たい汗が流れた。

被っていた店の帽子を少しだけあげてよく顔をのぞき込んでみると、そこにいたのは中学校まで同級生だったY君だった。面影がはっきりと残っていて、それなりに仲が良かった彼だったからでこそ私は一目で誰か分かった。


ここは地元で実家は歩いて3分、同級生と遭遇するというその可能性は大いにあった。その時どんな状況で会い、どんな気持ちを抱くかまでは想像したことが無かった、こんなにもいたたまれないものなのかと。

何の準備も予兆もない、古い知り合いとの再会は嬉しくもあったが、悔しさの方が遥かに強かった。


「お、おう、いま大学通ってたんだけどちょっととちっちゃってさ」

私はそこでY君に現状を話した。いま薬学部に通っていることや5年まできていること、そしていきなり始まった進級試験で落とされたことなどを話した。話をしながら、俺は何をしてんだろうなと思いつつ。


Y君の事はそれなりに知っている、家族がみんな自衛隊員幹部でY君もその当時、自分も自衛隊に入るんだろうなと言っていたことを覚えていたからだった。

ただ中学で別れてから彼と会ったことはなかった。高校でのY君も優秀な人間だという噂はよく聞いていた。成績も上位で運動神経も抜群だったことを知っていたから、きっと立派に勤めを果たしているんだろうなと思っていたくらいだった。むしろ再開するまでは頭の片隅にすらいなかったといってもいい。顔を見ただけで深く眠っていた記憶が刺激されたのだ。


「何馬鹿やってんだよー……でもおまえ、頑張ってんだな」

「ぶっちゃけただの尻拭いだけどな、自業自得だししゃあないわ」


笑いながら、茶化しながら言うY君に私は劣等感を覚えていた。Y君に話をしながら自分を責めていた。

進級試験がいくら難しくても、合格している人間がいる以上無謀な試験ではないということをそのころは考えていた。結局は自分が堕落していただけで、いきなり始まったことなど言い訳にはならないのだ。

そして本当に頑張っていればこんな場所で、こんな風に再開することはなかったのではないだろうかとも思っていた。もしかするともっといい出会い方をできていたのではないだろうかと。


そのあとはY君自身の話を聞いた、Y君はやはり自衛隊に入っていて、いまは代休で実家に帰ってきているという話だったが、またしばらくこれなくなるかもしれないとも言っていた。

この店には度々顔を出していたという話で、元々通っていたということは遭遇するのも時間の問題だったが、このタイミングを逃せば会えなかったかもしれないということでもあった。


本当はもっと話をしたかったが、大将の無言の圧力のようなものを感じる、一言二言くらいは許してくれたことには感謝している。だがバイト中ということもあって長話できないというのは自分自身がよく分かっていた。

「じゃ、まだ忙しいし俺行くわ」

「おう、頑張れよ」

久々にあった知り合いは自分を応援してくれているようで、そのあとの仕事により力が入った。

 


「おーい家風、ちょっとこーい」

また大将の声が聞こえてきた、今度はすぐにわかった、Y君の事だろうと。

「ちょっとこいつがお前を呼んでくれって言っててな」

度々顔を出すという話は本当らしく、大将とY君の仲は良さそうに見えた。たまに厨房から覗き見たとき、笑いながら話をしている様子もよく見えていた。

Y君は会計を既に終えて、ちょうど入り口から出て行くところだった。


「俺もう帰るけどさ、おまえまだまだバイトあるんだろ」

「うん、だいたい12時くらいまである」

「そっか、大変やな、まあやっちゃったもんは仕方ねえよ、これから頑張っていけ、俺応援してるから」

「ありがとう、あ、いや違うな、ありがとうございます、またお越しくださいませ」

「なんだよそれ、もう一端の店員きどりか。またいつか来るよ」

そう言ってY君は帰っていった。



その日の帰路、私はいろんなことを思い返していた。

同級生という客の存在を考えたことがなかったわけではない、そして一番出会いたくない客だということも間違いなかった。ただ幸いだったのはその時会ったのがY君だということだった。

もしこれが他の人間だったらどうだっただろうか、もしかすると蔑まれていたかもしれない、見下されていたかもしれない。

だけどそれなりに知ってる相手を前にすれば、そう言った不安は消し飛んだ、それどころか応援までしてくれた。

「やっちゃったものは仕方ないか」

要はこれからどうするかということを彼は言いたかったのだ。

また家に帰って勉強するか、私はそんなことを考えながら、短い帰路を帰っていった。

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