初めての団体客
客が徐々に増え始める7時ごろ、座敷の方に向かう団体客らしき姿が見えた、店内はそれほど広いというわけではないので、少しずつ店の中に入ってくる、大体3人ずつくらいで、仕事が終わってから現地集合と言って様子だった。
部屋の仕切りや皿などの用意でその日の予約客の存在は知っていた、どんどん人が奥の座敷部屋に吸い込まれていく。
そして予約客が揃うと、厨房は前もって用意していた料理を出し始めた。その時間に作り置きしていたのはサラダだけで、他のコース料理は順次用意していくといった様子だった。
「ほら、早く持っていった持っていった」
奥さんにそう急かされてサラダを持って行った、座敷の方は団体客が人数分揃ったのか、一目みて空いている席はない。
「すみませーん注文お願いします」
団体客の代表らしき女性が私に声をかけてきた、仕事を教わっていた時から不安だった仕事が、今日初めて体験するのだと。そこに高揚感はなかった、不安と恐怖で押しつぶされそうになりながらも、表情は誤魔化しを入れる。無理やりにでも口角をあげようと意識しながら接客した甲斐があったのか、客は私の心の内を知る様子はなかった。
その場にいた人数は予約表でも確認していた通りの人数であり、12人ほどがテーブルの前に座っていた。つまり12人分の飲み物を注文されるのだと分かった。
注文の確認も取ったうえで厨房の方に戻ると、すぐさまRさんが話しかけてきた
「飲み物一人で行けそうですか」
「多分大丈夫です、生12なので」
不幸中の幸いだった、他の飲み物はない、乾杯の音頭の一杯はビールだという居酒屋の、よくあるルールのようなものに助けられた。サーバーの扱いこそ不安ではあったが、カクテルと比べれば遥かに容易い。
「じゃあでき次第あたしが持って行くんでビールどんどん入れていってください」
Rさんは手持無沙汰でやることが無かったらしい、ピークの時間ではあるが、その日は少し緩い流れだと言う。
「普段このくらいの量だったら一人でやらんといかんですけどね」
そう言うRさんは笑みを浮かべていた。その言葉は奥さんに言われたものと同じ状況で、同じ意味だが全く違う印象を受けた。こういう風に言われると私も頑張りたくなるななんて思いながら。
ふとRさんについて興味が湧いてくる、この人は何をしている人なんだろうと、そんな一瞬の考えは、バイトの忙しさに忙殺されていった。
私はさっきのリベンジとばかりにビールサーバーを傾けた。先の失敗から厨房の人にいろいろと聞いたのだが、結局は慣れだと言っていた。
最初の一杯だけRさんがやってくれた、練習はできないということで見て覚えてくれということらしい。注ぐ様子、泡を作るタイミング、集中してみるとあっという間に終わってしまう。
次は私の番だとサーバーの場所を開け、Rさんは後ろからじっと見ているのか視線を感じた。見よう見まねで同じように注いでみると、成功した。今度は泡だらけのビールを出すことも無くなった。
「いいですよ、その感じです、じゃんじゃん入れていってください」
応援もあった、ちょっと照れ臭かったが、残りの10杯も失敗することなく注ぐことができると妙な達成感を覚えた。
生ビールを運び終えて厨房に戻ると、少しざわついていた座敷の方が少し静かになり、音頭を取る声が聞こえてきた。
そして乾杯という声と、少し鈍いグラスの音が聞こえてくると、さっきまでの静寂を破るような楽しそうな声が聞こえてくる。団体客の宴会が始まったようだった。
グラスがないと乾杯の音頭もしまりが悪いということだろう、遠くに聞こえるその声を、自分が用意したということもなんだかうれしく思えてくる。
そんな余韻に浸れたのも一瞬の話で、厨房に戻るとすぐさま料理はできていた、簡単で早くできるものから順番に作り上げていく、もちろん順番こそ考えてはいるようだったが、とにかくひっきりなしに席と厨房を往復する。
宴会客は12人、奥の座敷の収容可能人数の半分ですらない。当然他の客からの呼び出しも、注文も、飲み物のオーダーも飛んでくる、厨房も当然料理が予約客だけで終わるわけがなく、他の客の分も注文を受け、作りながら同時進行していく、目まぐるしいとはこのことかと思った。バイトは3人いたが、残り一人の女子高生と厨房で話をする余裕などとてもなかった。
注文票をのぞき込んでみると、出された料理の欄には横棒が引かれ、団体客の予約料理が中盤を迎えたことが分かった。
それと同時くらいに、同じ卓の席から呼び出し音が鳴る。他にホールがいなかったので私が向かうと、そこでまた飲み物の注文を受けることになった。
向かった先で受けた注文は、今度は10人分の飲み物をこそ頼まれたが、その内訳に今回は生ビールがないことに気付いた、嫌な汗が背を流れた。
注文を持ち返った私だったが、持ち帰って改めてみても、もはや呪文のように見えない。
できるところから始めようと、とりあえずRさんに教わっていたカシス系はすぐに作ることができた、分量1:1で入れて混ぜればいいだけだと教えてもらったことが生かせた。
だがスクリュードライバーとはいったいなんだ、モスコミュールとはいったいなんだ。名前を聞くことがあっても、その分量や材料を知っている人間は、関係者でもなければほとんどいないだろう、私も過去には店で頼んだことがある、だが振り返ってみてもどんな味だったかすら記憶にはない。
ジュースサーバーの横にある例の呪文表を何度も見ながら作っていた、しかしそれでは遅いようだった。
「遅い遅い、もっと早く用意しなさい、ほら2番の料理できたよもっていきな」
私の鈍いケツを蹴り上げるように、奥さんは急かしてきた、そんなことを言われてもまだ二日目だぞと、口には出さないが文句が頭に浮かぶ、、軽いパニック状態になる、こんなのどうしろというんだと思っていると、ホールから戻ってきたRさんが助け舟を出してくれた。
「自分下から作っていくんで、料理持っていって戻ってきたら、上から作っていってください」
本当に助かると思った、地獄に舞い降りた天使なんていうと人並みの表現かもしれないが、精神的に追い詰められそうなときに助けられる、もはや憧憬に近かった。そしてRさんの助けもあって団体客の飲み物も運び終ええることが何とかできた。
上から作っていったはずなのに、半分以上はRさんが作り終えていた、このままでは足を引っ張るなと思いながら。
このころには、このバイトは助け合いが必須な場所なんだなとわかる、もしRさんが困っていたら自分も手を差し伸べたいと思ったが、そんな様子が浮かばないほどに、てきぱきと行動し、仕事をこなしていく後ろ姿だった。どのくらい永いことここにいれば、これほどの動きができるのだろうか、そんなことくらいしか頭に浮かばない。
予約コースの最後はアイスらしい、その時になっていきなり説明されたのは、アイスを用意するのはホールのバイトだということだった。そしていきなりアイスの用意を命じられた、教わりながらではあったが、急すぎてやはりテンパっていた。ただ救いだったのは、アイスを用意することはなんてことはないことだった、器具でアイスを掬って小皿に置き、少し丸みを持たせるように動かすそれだけで、そのアイスの横に、建物の外で育てているハーブを人数分ちぎって添えるという内容。ただそれを12個ともなると大変ではあったが、他の作業ほどではなかった。
アイスを運び終えて少しすると、座敷の方から声が聞こえてきた。どうやら解散の音頭らしい、そして彼らはまた明日から仕事につくのだろうと思うと、少しの羽休めができればいいななんて思っていた。ただの一介のバイトながら、気分だけはどこかのコンシェルジェのような気分だった。
宴会が終わったのか客が一斉に帰り始めた、最後に幹事らしき人が会計を済ませる。
「ごちそうさま、また来るよ」
そう言った団体客が出て行ったのを確認した。ありがとうございますと、気づけば頭を下げて礼をしていた。
そこからが本当に大変だった、飲み物を出す労力など大したものではないということを知った。片付け作業が最も大変だという事を知った。
とにかく急いで皿やグラスを引く作業に入る。料理や飲み物を持っていったその都度、少しずつは皿やグラスなどを引いていたが、それでもまだ大量の皿が残っていた。12人分の皿が、料理の数だけあるのだ、単純な物量が私を圧倒した。
すぐに片づけなければならない理由があった、それは新規の客が来た場合、さっきまで宴会だったこの場所をまた仕切りで分け、一部屋5人分くらいの空間を作らなければならないからだ。
来てからでは遅い、来る前にある程度は片づけなければならない。
持って行くときは皿4枚程度が限界だったが、片づけるときは何枚も重ねていく、大体どんな皿も10枚くらいの単位で運ぶことになる。
座敷は大体一段くらい高い場所にあり、何度も屈伸作業に、膝でフローリングに立つ作業に、重い皿を持って立ち上がる作業を繰り返す、年寄りがやればぎっくり腰になること請け合いに違いない、そしてバイトが高校生から大学生しかいない理由が分かった、若さを売りにしなければ仕事が成立しないのだと。
とにかくスピードの勝負だった、腰が悲鳴を上げているような気もしたが気のせいだと思いこむことにした。そして嫌な予感は当たるもので、予約なしの飛び入りの客が一組きた、人数は4人だったので仕切りとしては一部屋分だけ作ればよかった。
そのころには宴会場もだいぶ片付いており、一部屋分だったらすぐに作れる状態だったので、少しだけ待たせて、すぐに客を通すということになった。
とりあえず一部屋分のテーブルだけを布巾でふき取り、仕切りを変えて空間を作る。急ごしらえながら、格子状の仕切り一枚あるだけで、すぐ隣はさっきまで団体客が騒いでいた席だという事実は、視線からは隠せた。
そして隣の席で料理を注文している傍らで、私はひたすらに皿やグラスを回収し、厨房の水を貯めたシンクの中に入れていった。
シンクにたまった皿やグラスもそのままにしては限界が来るので、頃合いを見計らっては洗剤で洗って食洗器に入れていく、その合間にも注文は入ってくる。
皿を食洗器に掛け、しまうことを何度も繰り返し、ふと時計を見てみると既に10時ごろを回っていた、既に高校生は帰っているようだった。私の初めてのフルタイムということで、10時以降に残るバイトはRさんではなく私の方になったという、そのままRさんと女子高校生は帰っていった。
二日目にして最後まで仕事をすることになったが、前もって話に聞いた通り、そこからの客足はあまりなく、厨房の手も空いたことで仕事についてようやく、直接教わることができた。11時のラストオーダーを過ぎると片付け作業が始まるという、それを丁寧に教わると、残っている客も少ないということでその日の仕事は終わりだということになった。
家へ帰る、徒歩3分がこれほどうれしいと思ったことはなかった、もしこれが徒歩10分などだったら、私は途中でコンビニにでもよって休んでいたに違いないからだ。それほど疲れ果てていた、労働時間にしてほぼ6時間近く、休憩なしの肉体労働なのだった。まだ始めたばかりで慣れてないんだ、そうに違いないと自分に言い聞かせながら、私は家へと帰っていった。
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