運命の客
私はシフトで週5くらいの勤務を入れられたことを直接告げられ、入り口わきのシフト表は私だけ真っ黒な状態だった。
それはつまり主戦力級の扱いを受けているようなものなのだが、まだバイトが始まって二日日である、そんなに人手がないのかと不安は募っていく。もちろん仕事の内容をすべて覚えているわけが無い、教わっていないのだから。
6時シフトの仕事を教えてもらった。すべてのテーブルを拭き、カーテンを開け、事前に予約を入れていた客用に皿、割りばし、おしぼりをその数用意する。そして入る客の人数に合わせて間仕切りを変えていく、仕切りはなかなか重く大きく、基本的に男しかできないと言っていた。
その日は特に問題なく座席の用意が済んだ、しかしそれは手伝いがあったから成立したようなものであり。
「これを全部一人でやってもらわなきゃいかんからね今度から」
その空気を察したのか、奥さんは釘を刺してきた。
「はい、頑張ります」
「頑張りますじゃなくて、できなきゃダメなの」
「は、はい」
言いたいことはわかるが、この人は何かと言葉が強いような気がする。人と一緒にいると、その人の人となりがだんだんと見えてくるものだが、あまり良くない面ばかりが目立っているような気もする。
開店前の準備は着々と進行していった。6時シフトと7時シフトが基本だそうだが、雇っている人間の多くが高校生ということもあって、7時にさえ間に合わない人間が出てくるという話だったが、その日の7時のシフトは件のRさんだったことを確認すると、私は少しだけ安心した。
7時になると一人だけ客が来た、予約時間はまだ少し先で、個人で入ってくる客もそれなりにいるらしい。カウンターに座る客は、店長が接客をすることが多いという話だった、ホールはそのカウンターに例のようにおしぼりと皿と割りばしを用意し、注文を受ければ料理と飲みものを持って行くのが基本となる。
「これも練習だ、お前が行ってこい」
「分かりました店長」
「あとあれだ、俺の事は大将と呼ぶように」
店長もとい大将が私にそう言った、どうやら大将と呼ばれたいらしい、少しこわもてな感じの顔つきだが、そんな悪人といった顔はしていない。
大将曰く、カウンターに座る人は顔見知りであることが多いらしく、気難しい客はほとんどいないという話でもあった。
研修中のタグを胸から下げ、私の初めての接客が始まった。
「ご注文を承ります」
教わった通りにそう言って、注文票を構えた。客は40代くらいの男性で、私が接客に行けと言われていた様子も、カウンター席から見えていたようで、少し乗り気な感じだった。
「そうだなあ、じゃあ枝豆と生中と、あと冷ややっこ貰おうかな」
「枝豆を一つ、ビールを一つ、冷ややっこを一つ、以上でよろしかったでしょうか」
「いいよ、バイト頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
柄にもなくうれしくなった、今まで誰かに褒められることや応援されることが極端になかった私にとって、素直にそう言われることは珍しい経験だった。
できることが多いわけではないのに周りの人間はたくさんを求める、昔はそうだったかもしれない、だけど今は凡人以下なんだと。
「おい、もうちょっと笑顔たい笑顔、にこっとしろ」
大将が茶化しながらそう言った、私は自分の顔がどうなっているか分からなかったが、とりあえず口角をあげるようにしてみた。
「笑顔も練習が必要やな、ほら、さっさと生の準備してこい」
大将がそう言うと、今度はせかすように声をかけてきた。接客は終わっていない、注文を運ぶまでが注文なのだとでも言うように。
「でも、僕は十分だと思うよあれで」
「いやあ、まだまだですよ、あいつには頑張ってもらわないといけませんからね」
そんな客と大将の声を背で聞きながら厨房の方へと入っていった。多くを求められるのは困るが、期待されるのもまた嫌いではない。
客の席番と注文された料理を大きな声で伝え、注文票をかけるフックのような場所に置く、すると
「了解しましたー」
という声が厨房から聞こえ、その注文を用意し始める。そしてその間に私は飲み物の準備を始めるのだった。
生ビールはカウンターの裏側にあり、ついさっきまで話をしていた男性の目の前で注ぐことになった。
下にある冷蔵庫からグラスを一つ取り出し、ビールサーバーに傾けて支えた、だがビールサーバーなど使ったことが無かった私は、一応は習ったが、悩み悩みビールを注いでいくと、泡4とビール6といったものができていた。つくづく自分は不器用なのだな思っていた。
「おい、んなもんお客様に出せねえだろうが」
大将の叱責が横から聞こえてきた、自分でもそう思っている、せめて泡が3くらいが許容範囲だろう、いや、ひょっとするとそれも駄目かもしれない。
どうすればいいのか分からない、パニックになりそうになった。まだ二日目だ、だが客からすれば何日目など関係のない話だ。
「いいよいいよ、それでもらおう、きみが初めて入れてくれたんだからね、記念だ」
そんな大将をなだめるようにその客は私に言った、私はできうる限り丁寧な手つきで、失礼の無いように席にビールグラスを置いた。
「お待たせしました、お先に生中一杯です」
顔を見ながら、どんな表情をしているか怖くなりながら、ひょっとするとその場で怒り出すのではないのか、色んな考えが頭をよぎったが、そのにこやかな表情は、心にかかった暗雲を吹き飛ばした。
「ありがとう、これからもバイト頑張ってね」
そんな声を受けて、私は厨房へと下がっていった。柄にもなく浮足立っていた。
私は居酒屋のバイトに入るまで、接客の客という生き物を何か別の生き物のような恐ろしいものだと考えていた、何かと隙があればクレームでも入れられてしまうのではないのかと、ネットだけで生きてきたような人間にとってはそう言ったイメージしかなかったのだ。
見聞きする話と実際の話がどれほど違うのか、私はその身で体験した。誠実に向き合っていれば、人は誠実さを持って返してくれるのだと、私の中で一生ものの何かがここで芽生えたのを感じたが、自分では自覚できていなかった。
間違いなく私の一生を変えた出来事だったということを。
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