未知の世界
居酒屋バイトの仕事は開店の一時間前から始まるという話だったが、初日ということで大まかな仕事の内容を途中から見て覚えてもらうという事になった。
私が店についたのは夕方の7時ごろで、店の中もそれほどあわただしいわけではなく、聞いてみるとピーク時間はまだだという話だった。
カウンターの裏の厨房から客席の方を覗いてみると、客もまばらな感じで、カウンター向かいの座敷や奥の大広間の方をのぞき込んでみると、皿やおしぼりは用意されていたがその殆どが空席状態だった。
店は予約が基本だという、開店前開店後問わず予約の電話がかかってくるという話でもあった。
私の他にバイトは3人いて、皆どれも高校生かその少し上くらいに見えるが、誰もがてきぱきと仕事をこなしているのに年齢は関係なかった。
彼らができるなら自分もきっとやれるに違いないという思いが浮かんできていた。そこで自分に活を入れた、やるかやらないかではなく、やらなければいけないのだと。
ほんの数分だけ挨拶の時間を取り、自分だけの簡単な自己紹介を終えるとすぐに仕事が再開された。見た目には高校生だと分かっていたが、どういった人たちなのかは全く分からない。仕事の合間にでも話をして親しくなれということなのかもしれない。
その中から大学生の女性が一人抜擢される。
「ちゃんとメモとらんで大丈夫とね」
Rさんは最初のうちはやっている姿を見て学んでほしいと言っていた、まだ何も説明を始めていなかったので出していなかったが、先に言われると少し嫌な感じがした。
奥さんに言われ、嫌な気分になりながらも私はメモ帳を取り出した。その姿を見た奥さんは頷きながら満足そうな顔をしていた。私は、その表情は好きじゃないなと遠目に見ていた。
収容できる客の人数はおよそ50人ほどだという話で、飲食系でのアルバイト経験が無い私には、それが多いのか少ないのかよく分からなかった。今はとにかく仕事にしがみつき、足手まといにはならない程度をまずは目指そうと思った。
Rさんは私と同じ大学生ということだった。それなりに古参のバイトらしく、その動きに一切の澱みがなく、無駄の少ない動きはバイトリーダーのような風格さえあった。
居酒屋は夜の11時がラストオーダーで、大体は12時まで開いている店なので、10時ごろを過ぎると高校生は帰り、そこからは大学生一人で回すことになるという。私とRさんと、一人だけキッチンに社会人の男性が一人、そして大将以外の人たちはみな未成年ということだった。つまるところ、大学生は基本的に閉店まで働き詰めだということになる。
「軽くですがホールの主な仕事について話しますね」
Rさんは、奥さんから何の説明もされることなくどんどん指導を進めていった。
割り振られる仕事は主には、割りばしや食器の用意、料理や飲み物の運搬、注文を受けてキッチンに伝える、食器を片付ける、客の人数によって座敷の仕切りを変えるといったことで、やること自体は単純だが、その内容が複雑に分かれていくと聞いた。
「すみません、ちょっとメモが追いつきません」
「あー」
特に私が分からなかったのは飲み物だった、居酒屋という場所に普段いかないにしても、大学の飲み会で入ることはある、その時見かけたドリンクの名前がサーバーの横に貼ってあり、調合表とでも言えばいいのか作り方がびっしりとそこに書いてあるのだ。
「これ、覚えないとまずいですかね」
「最初は見ながらでしょうがないですよ、やってれば自然と覚えていきますんで」
商品としてのカクテルはおよそ40種、それもノンアルコールも含めれば50ほど、中には三つお酒を混ぜるといったものもあり、組み合わせは計算するのも嫌になるほど。私の顔を見たRさんは言った。
「でも、あんまりでない商品とかもあるんで、結構覚えるものは少ないと思いますよ、大丈夫ですって、薬学部だったらすぐ覚えられますって」
そう言った。
何かと薬学部であることを引き合いに出すのは、最初の紹介の時に、私が何学部であるかを奥さんが話したからだった。
正直勘弁してほしいと思った、自分はそのことで誇りなんぞ持ってないし、むしろこういったことを言われるのが嫌だから仲良くでもならないと話さないだろうと思っていたからだった。
そもそも、すぐ覚えていたらいま私はここで働いていない、社会一般的には薬学部=記憶力がいいとなっているようだったが、薬学部程度であれば凡人だっているのだと。
とりあえずは、Rさんがよく出ると言った飲み物をメモしていた。
次に大変そうだと思ったのは飲み物の運搬だった。小さな銀のお盆に、いくつも飲み物を載せていく、5個や6個ではない、10個や12個だ、それと一緒に料理も運ぶようにも言われる、つまりこれらを片手で持たなくてはならない。お盆は小さく、グラスだって均一な重さではない、それを片手で持って運べというらしい。
だがそんな不安をよそに、高校生たちはどうやってバランスを取っているのだろうかと思えるほど、その小さなスペースに大量のグラスを載せて速足で運んでいた。これに関しては本当に自信がなかった、やって覚えられるのか本当にと。
「ちなみにわったら弁償です、あと料理に関しても駄目にしたら自己責任です」
Rさんはそんな私の不安に畳みかけるかのように言った、そんなことを言われるとより一層緊張する、お金を稼ぎに来ているのにマイナスになったらどうするんだと頭の中では少しパニックを起こしそうになっていた。初日だというのに、いや初日だからでこそ不安は強烈なものになっていく。
「でも大体普段使ってるグラスとかは100円なんで大丈夫ですよ」
そしてそんな私の様子を察したのか、Rさんは補足説明をしてくれた。少し安心したのだが、ふと気になって私は聞いてみた。
「あの、一応一番高いのってどんなのですかね」
「一番高い皿だとー、あれかな、刺し盛り載せる大きな皿かな、あれは3時間分くらい無くなりますね。グラスだと、ちょっと大きめのやつがあるんですけど、あれで30分とちょっと飛びます」
安心は引っ込んでいった、興味本位で聞くものではなかったなと。別に元々割る気などなかったとしても、そんな話を聞くとだんだん自分が運んでいるものに値札がついているように見えてきてしまう。時間と労力を売っているのに、食器やグラスまで売る羽目になったらたまったものではない。
「注文の取り方は教わりましたか」
「ある程度は教わりましたが、実際にやっているところを見たことはないですね」」
その時ちょうどピンポーンという音が鳴り響いた、これは客からの呼び出し音だった。
「じゃあ今ちょうど呼ばれたのでついてきてください、やって見せるので覚えてください」
なんだかやたら親切な女性だなと思ったが、説明を任されるほどの立場だとそういうものなのかもなと思っていた。
呼ばれたのは座敷の方で、扉は締められていたが中から音が聞こえて客がいるのはわかった。入る前に2回ノックをし、返事が返ってきたら失礼しますと言ってLさんは入っていく、フローリングの床に膝から入り、正座の姿勢の状態から、注文をお受けしますというとそこからは客が注文を頼む時間になった。
請け負えると注文内容を復唱し、再確認したのち失礼しましたと声を出しゆっくりと下がり、そして扉を閉める。
「あとはこの注文票をキッチンの壁のところに引っ掛けるくらいです。3番注文でス、よろしくお願いしまーす」
注文票をひらひらとさせるRさんの笑顔は楽しそうだった。
「はーい、分かりましたー」
キッチン側からの返事を受け、注文の受け答えが終わりると、注文の中にドリンクがあったのでLさんはそれを作り出した。
グラスを5個か6個は置けば、もう置き場所がないように思える小さなスペースにグラス置いていき、Rさんは表を見ることなく注文のドリンクを用意していった。
ジュースなどは簡単なものだったが、2種以上のお酒を混ぜるカクテルは分量まで決まっているものまであったが、難なくこなしていく。
「大体出るのはカシスほにゃらら系ですね、カシス半分に後ろにつく奴を入れれば大丈夫です、簡単でしょ」
そう言いながらカシスほにゃらら以外を作っていた、仕事の説明をしながら別の作業をする、仕事が染みつくほど動作に馴染んでいると分かるもので、この域に達するのはどのくらいかかるのだろうかと思いつつ、私はカシスはよく出るとメモをしていた。
初日ということもあってか、2時間ほど後ろをついて回り、仕事をいくつか補助したりすると、今日はもう帰っていいという話になった。仕事自体はまだまだたくさんあるらしいが、一日で説明をするには無理があるという事だった。
続けたい意思と、仕事自体の大変さに板挟みになっていたが、家に帰って風呂から出ると、小物を入れていたかばんを部屋に放り投げ、布団で横になった。
それなりに疲れていたのか、スマホを開いたりもせず、気がつけばすぐに寝入ってしいた。
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