30.お風呂場の戦い

 風呂上がり、私は今絶望の淵に立たされていた。いや、正確には自ら進んで絶望の淵に立ってしまったと言った方がいいのか。


 一先ずどちらが正しいのかなんてことはどうでもいい。とにかく私は今ピンチだった。何がピンチだって?

 それは……。


「着替え持ってくるの忘れた」


 一応体にバスタオルは巻いているものの、この装備では少々というか、かなり心許ない。もちろんいつもならこのまま着替えを取りに行っていただろう。

 しかし、今日はあの男がいるのだ。今日に限ってこんなうっかりをしでかすとは本当に私というやつは……。


「……ってこんなこと考えるより今はどうするのか考えるのが先でしょ、私」


 さて、ここからどうしようか。このお風呂場の外には桜田がいる。もちろん彼に取ってきてもらうなんてことは論外だ。あれ、私どうすれば良いの?


「……不味い、詰んだかな」


 こうなったらもう行くしかないのか。ほとんど裸の状態であの男の前に姿を現す危険を冒さなければいけないのか。

 だが私にはもはや取りに行くという道しか残されていない。バスタオルを体に巻いたまま、この場所に数時間もいてみろ。すぐに風邪を引いて、またあの二人に迷惑を掛けてしまうだろう。


「そんなのもうゴメンだからね」


 そうだ、要はバレずに着替えを取ってくればいいだけなのだ。大丈夫、私なら出来る。だってゲームの中の私は立派なアサシンだ。闇に忍んで、敵の死角から一気に襲う。それが私の専売特許。


「まずは外の様子を……」


 そう思ってお風呂場の引き戸を横にスライドさせたその瞬間だった。


「有栖川、一応洗い物は……!?」


 戸を開けて真っ先に飛び込んできたのは桜田の姿、そのとき見えた彼は私の方を見て驚愕の表情を浮かべていた。

 え、嘘……。瞬間的に顔が熱くなる。


「あ、洗い物ありがとうっ!」


 そして何か言おうと咄嗟に口から出てきたのは何故かお礼の言葉だった。その言葉と共に私は戸を閉め、扉に背を預けてから慌てて座り込む。


 見られた? 絶対見られたよね?

 だがここで私までもが焦ってはいけない。まずは冷静になるために深呼吸だ。そう思った私はすぐさま十分な空気を肺に送り込み、そして戻ってきた空気をゆっくりと口から吐き出す。それを何度か繰り返していると段々と気持ちが落ち着いていくの感じた。


 しかし落ち着くと気になってくるのはどうして彼がお風呂場の前にいたのかということ。わざわざそんな場所に立っているなんてまるで……。


「もしかして覗き?」


 そうとしか考えられない。彼に問い掛けると同時に扉に付いている鍵を一緒にかけることも忘れない。


「いや俺はただ洗い物が終わった報告をしに来ただけで……その、すまん。覗くつもりはなかったんだ」


 焦っているのか桜田の声は若干上擦っている。この明らかに動揺している声を聞く限りどうやら本当に覗くつもりはなかったらしい。ただ単にタイミングが悪かっただけか。


「そっか、分かった。偶々なら仕方ないよね。でも覗きたいとは思わなかったの?」


 気付くと私の口からはそんな言葉が漏れていた。

 一体私はどうしてしまったというのだろうか。普通なら覗かれたくないと思うのが当然で、さっきまではもちろん私もそう思っていた。

 だがどうしてだか今は彼に覗くつもりなどなかったと言われて少しだけ腹が立っている。


「それは……」

「いや、やっぱり何でもない。とりあえずそこをどいてくれるかな」


 違う、これは恐らくお風呂でのぼせて変になっているだけなのだ。きっと頭を冷やせばこの異常な考えも正常に戻るはず。


「どくってその格好で出るつもりなのか?」

「仕方ないでしょ。着替え忘れたんだから」

「そうか、分かった」


 そうだ、一番の問題だった着替えはなんとかなったんだ。結果オーライと言えるだろう。


「ちゃんと見ないように後ろ向いててよね」

「わ、分かってる」


 引き戸の隙間から桜田が後ろを向いているのを確認してから私は素早く自分の寝室へと着替えを取りに行った。



◆ ◆ ◆



「あれ、お二人共何かありましたか?」


 次の日の朝、登校の待ち合わせでやって来た楓が突然訝しげな顔をして私達にそう尋ねた。


「何かって別に何もないよね? 桜田君」

「あ、ああそうだな。いつもと変わらないだろ」


 私と桜田の返事に楓はまだ何か疑ってそうだったがさほど気にならないのか『そうですか』と簡潔な一言で済ます。

 もしかして昨日のことでちょっと桜田と気まずいことが他人から見て分かるほど表情とか態度とかに出ていたりしたのだろうか。

 もしそうだとしたら気を付けなければ、楓にはお風呂場に着替えを忘れて恥を掻いたなんていうあのマヌケな失敗を知られたくない。


「そういえば昨日携帯に入れたゲームはやった?」


 話題を変えたいという一心からか、無意識のうちに私は話を昨日始めたゲームのことへと変えてしまう。

 流石に不自然かと思ったものの、そこに違和感を覚えているのはどうやら私だけらしく楓は私が始めたゲームの話に何の疑いを持つこともなく、寧ろ嬉々として食い付いてきた。


「有栖川さん、よくぞ聞いてくれました!」

「う、うん」


 この誰かに話したいオーラ全開の様子を見る限り、どうやら楓も昨日は私と同じようにゲームに没頭していたらしい。

 彼女の顔をよく見ると目の下にうっすらクマがあるので既にかなりの時間をやり込んでいるのだろう。

 一体何時までやっていたのやら。まさか今度は楓が睡眠不足で倒れたりしないよね?


「実は私昨日初めてボスに挑戦したんですけど、そこでレアな装備がドロップしたんです。あ、今度一緒にやるときに見て欲しいんですけど、その装備が有栖川さんにピッタリなんですよ。というのも天使みたいな見た目の装備なんですけどそれが可愛くて。それで……」


 これは長くなりそうだなと思いながらも、楓が嬉しそうに話をする姿に私は黙って耳を傾けてしまう。

 しかし、すぐに今は彼女の話を聞いている場合ではないということを悟った私は二人に学校へと行くよう促した。


「話の途中で悪いんだけど、とりあえずみんな揃ったしそろそろ学校に行かない?」

「す、すみません。そうでしたよね。ではこの話はまた放課後に」

「じゃあ放課後は桜田君も一緒にこの話の続きを聞くということで」

「おい、何で俺まで巻き込むんだよ……」

「まぁ嫌だったらいいんだけど」

「別に嫌じゃないが」

「じゃあ決定ね」


 全く素直じゃないなと桜田にニヤニヤ笑顔で笑いかければ彼にしては珍しく少しだけ顔を赤くした。

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