第6話
久の日常はこれまでと大いに変わり、毎日が楽しいものへとなった。
ここでは誰も久を蔑む事も白い目で見る事も、ましてや暴力を振るわれる事もないのだ。
そして今日も久の日常は緩やかに始まる。
久たちの朝は早い。
日が昇ると同時に起床するのだ。
与えられた部屋には時計はない、いや元々屋敷のどこにも時計は存在しないのだ。
だからと言って、この世界に時計が存在しないわけではない、この家にだけである。
その理由は時間に追われて生きるのではなく、時間に囚われずに生きたいという、まるで世捨て人のような理由でだった。
まずは魔導人形に混じっての農作業である。畑には小麦に始まり様々な穀物や野菜が植えてある。魔導人形を指示するのはエミルではあるが、農作業の知識を元々有していたのはシャイラだったらしい。だが250年ほど過ごしている内にエミルも覚えたらしい。
ここで気になるのはシャイラの存在だ。
共に作業をする魔導人形は知識など存在しておらず、ただ言われた事を行うロボットといった様子でまるで違う。
シャイラは己で考えて行動するし、長い間の知識を記憶している事も出来ている。更には久やエミルといった人間の心の内も察する事が出来るのだ。
それはまるで人間のようである……いや、地球での事を思い出せばそれはサイボーグなどと言われる物と似ていた。ただサイボーグであれば人体の一部が残っているはずであるから、正しくはアンドロイドだろうか。
エミルの説明では、シャイラや先日発掘した魔導人形たちは遥か昔に繁栄していた古代文明の遺産である。それは250年研鑽を積み続けて来た現在のエミルでさえ、未だにシャイラというお手本が目の前にあってしても1から作り上げる事は不可能なほどに卓越した技術を持っていたようだ。そのためエミルの研究は古代文明の解明もライフワークとしており、ロボットやアンドロイドという発想がある久の住んでいた地球に今はとても関心を寄せているようだ。
その後はリードの散歩だ。
まぁ散歩と言ってもリードの身体はとても大きいので、たった1歩でさえ数メートルを歩く事になるので、久たちは徒歩ではなく走る必要があったりする。
そしてログハウスと畑以外は深い森だ。そこには久が見た事もないような異形な生き物が跋扈していたりもする。それ故に、散歩とは名ばかりでリードの狩猟を見守りつつ走って追い掛けているというのが正しい。
異形の生き物……それは脳が瘴気に侵された生き物であり、総じて魔物と呼ばれているらしい。
「レベルアップとか経験値とかあるんですか?」
「んっ?スキルの話か?」
「いえ、人間自体が魔物を倒す事で経験値を得てレベルアップとかはあるのかな?って思って」
「……聞いた事はないな。チキュウでは皆そうやって成長していたのか?」
「い、いや、ないです」
魔物と聞いて久が思ったのは、ゲームなどのレベルアップして身体などが強化されるのかという疑問だった。
だがエミルの答えは否だった。それどころか、魔物の脳内に溜まった瘴気の塊を戦闘時に傷付けてしまい、そこから漏れ出る黒いモヤのようなモノを吸い込んでしまうと、人間の脳内にも瘴気が溜まり……過ぎると正気を失ってしまい魔物化してしまうらしい。
では瘴気とは何か?それは妬み嫉み恨みなどの負の感情の全てを指すようだ。全ての生き物の負の感情が澱みとなり瘴気へと変化すると言われているが、未だ正確な事はわかってはいないらしい。
ただわかっている事は、知能の低い生物ほど脳内に瘴気が溜まりやすく、魔物化しやすいとの事だった。
「人間もなるんですか……怖いですね」
「うむ、悪事ばかり働いていると瘴気が溜まりやすいと言われておるな。そうすると額から黒いツノが出てくる」
「その瘴気の塊?はどうなるんですか?」
「ツノと繋がっておってな、それを傷付けて取り出したら灰になるまで燃やして埋めんといかん。もしそれを他の動物が食べたりしたら魔物化してしまうし、魔物が食べでもしたら更に凶悪な魔物となってしまい、人の手ではなかなか倒せんようになる」
思わず自分の額を触ってしまった久の行動は、致し方ない事だろう――悪さをしていなくとも警察を見たらつい背筋を伸ばしてしまう心理と同じようなものだ。
「そのツノが生えるだけなんですか?普通の人や獣との違いは」
「脳に瘴気が塊となるわけだが、そのせいか脳のある場所を刺激し続ける事によって、力の加減が効かなくなる……つまり通常は抑制しているはずなのだが、それが無くなる事により数倍の力が出ると言われているな」
「凶暴になって、人以上の力になる?」
「うむ」
とても恐ろしい話だが、久は心の片隅では地球でも同じような現象があれば良かったのにとも思っていた。
「んっ?どうした?まじまじと私の顔を見て……」
ふとここで疑問に思ったのだ、悪人にツノが生えるというある種わかりやすい現象があるのならば、エミルは国を追われなくても良かったのではないかと。そこで思わずエミルの額を見てしまっていたのだ……もしかして隠れているのかと。
「い、いや……ツノが出るんだったら、エミルさんの潔白って証明出来なかったんですか?」
「あぁ、そんな事か……ツノはな、あくまでも脳内に塊が出来た後しばらく経ってから額を突き破って出てくるのだ。だから「ツノはまだ出ていないだけだ」などとも言われたし、「きっとツノを無くす方法を見つけたに違いない」などと言うものもおったな。まぁ、悪者に仕立てあげるのは簡単な話だって事だ」
「……そうですか」
己の利を守る為ならば、詭弁を駆使して他者を貶める……人とはなんと業の深い生き物だろうか。
「ツノ付きの者ばかりで暮らす里もこの世のどこかにはあるらしい」
「凶暴になっているのに、他人と一緒に暮らせるんですか?」
「らしいとしか言えん。ツノがある動物を魔物、人を魔人と呼ぶのだが、魔人ばかりの里がどこかにあり、いつか攻め込んでくるなんて話を聞いた事もあったな……まぁ軍事力を高めるための言い訳と思って聞いておったが、もしかしたら本当にあるのかもしれんな。いつかそんな場所があるなら見に行ってみたいとも思っておったが、ここでの暮らしが性にあっていて、ついつい250年も経ってしまった」
「ついつい250年って……」
ついついというには年が経ちすぎていると、思わず突っ込んでしまう久だったが、エミルは笑うばかりだった。
ただ国に、信じる者たちに石を投げられ追われた身となれば、引きこもりたくなる気持も少しわかるような気もするが。
「まぁ久も来た事だし、そろそろ他の場所を旅するのもいいかもしれんな」
「旅……ですか?」
「うむ、250年も経っているのならば色々変わっているであろうしな。久もせっかくこちらの世界へと来たんだ、色々見てみたくはないか?」
まだどちらの世界で生きていくかは決めていない。ただエミルのうっかりによって不老になってしまった身を考えると、戻れたとしても地球で生を全うする事は難しいだろう事を考えると、ここにずっと居るよりも確かに世界を旅してみたいとも思える。
「そうですね……もし良かったら一緒に行きたいです」
「そうか!?もし良かったらその時はシャイラの仲間探しも手伝って欲しいがいいかな?」
「もちろんです」
「ありがとう……だがそれにはまず久が魔法をある程度自由に使えるようにならんと、森を抜けるのにも苦労する事になる。それに魔力を貯めて、1度はチキュウに戻りたいだろう?」
「そう……ですね」
「まぁその辺は好きにすればいい。戻らずともずっとここにおっても構わんし、帰ってチキュウで暮らすと言うならば、寂しいがそれはそれで構わん。時間はたくさんある、ゆっくりと考えればいい」
「はい……ありがとうございます」
そう、あと7年間あるのだ。
その時になってから考えよう、まだ本当に地球へと戻れるとも決まったわけではない。もしかしたら魔力がどれほど貯まっても戻れないのかもしれないのだ。あくまでも転移スキルによってこちらの世界へとやって来たと思われているが、地球で暮らしていた時にはなかったものなので真実はわからない。
久はそこまで考えると力なく首を振った。
「慌ててもいい事なんて1つもないからな」
そんな久を労わるように、優しげな声で告げたエミルは柔らかく微笑んでいた。
そんな姿を見て、ふと久は恥ずかしさを覚えたが、なぜかそれが居心地も良かった。
果たしてこれまでの人生において、ここまでリラックスして過ごした時間はあったかと考える。両親が揃っていて、まだ何も起きていない頃の遠い記憶を探ってもないように思えた。では近しい記憶……恋仲になりつつあった大迫愛理との時間を考えても、やはりなかった。
一体今までの人生はなんだったのか……
他人に蔑まれ卑下されるだけの日々。そして世間に捨てられ、親に捨てられ、拾われた先でまた捨てられた。
「ゔゔっ……ヒューッヒューッ……」
急に吐き気を催し、手で口を抑える。
これまで受けた罵声や暴力、冷たい視線の幻覚を見て、更なる激しい吐き気を覚えると同時に呼吸が出来なくなり始め、胸を喉を掻きむしる。
「まだ早かったか……ゆっくりと今は寝て過ごせばいい、時間はたっぷりある」
また薄れゆく意識の中、エミルの労る声が聞こえた……
気が付いたのはまた2日ほど経ってからだった。
2日も眠ってしまった事に驚き、慌てて手伝いに向かったが、エミルたちからは「ゆっくりと寝て、まずは体調を治して欲しい」と言われてしまった。
だが居候の身としてそれは許されざる事という思い……いや、何よりも何もせずにいる事により無駄飯喰らいと罵られた上にまた捨てられてしまうのではないかとの恐れが1番大きい。
それは恐怖だ……
気を許し始めたここでの生活故に、また捨てられてしまうのではという恐怖が募る。
そしてそれはまた地球でのこれまでの人生を思い出してしまい、吐き気や激しい動悸がその身を襲い……意識を失う。
悲しすぎる悪循環となっていた。
幾度も繰り返し襲い来る過去。
それは両親の事、学校での事、社長一家や会社での事の全てだ。
幾度と繰り返される中、社長一家や会社での日々がどんどんと明確に思い出されてゆく……
漏れ聞こえて来た社長夫妻の言葉の端や、ふとした時の発言、態度や視線など思い出せば思い出すほどに、あの日あの社員が言った通り最初から金ヅルとしか見ていなかったのだろうという思いが確信へと変わる。
恋仲だと思っていた愛理に対しても、あれは全て演技だった……そういえば仲良くなり出したのも生命保険に加入してすぐだった気がするのだ。それまでは少し距離感があったのに、急に話しかけて来るようになったと。
信じて一生懸命働き尽くしてきたのに、それを嘲笑い利用した上に、命まで奪い金に変えようとした者たちへと怒りが込み上げる。
復讐したい、想いを裏切った者たちへ目にものを言わせたいと……
それにはまずは地球へと帰る術を得なければならない。そしてそれには魔力が必要であり、転移スキルをもっと理解する必要がある事を認識する。
復讐心……
そのドス黒い気持ちは、久に生きる力を与えた。
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