第8話 処女は守るべきもの
外は風が吹いていた。無機質な金属の階段に、無機質な照明が落ちている。ロングドレスの裾が風でふわりと広がる。
「聞かせてもらおうか。どうして俺を監視しているのか」
強い口調で彼女に歩み寄って見下ろした。
「所属は? 目的は? これ以上目障りな態度を続けるなら、君はもちろん上の奴とも話を付けさせてもらうけど」
ヴォルガは怯えた顔で後退りする。彼女の背中が踊り場の鉄柵に触れた。俺は肩に掴みかかろうと手を伸ばす。すると彼女はか細い声で口を開いた。
「……所属はノリフ・バレエです」
——バレエ? こいつがロリータか? それとも、アンナと同じように取引を妨害する他の組織の者か?
「もう一つのキーワードは?」
「キーワード……? 何のことですか?」
「言えないなら、俺達を妨害に来たと見なす」
ヴォルガが小さく悲鳴を上げる。どうもおかしい。こちらがこれほど挑発しても、怯えるだけだ。逃げるとか戦闘体制に入るとかいった気配がない。
「誰の命令で動いてるのか正直に言え。ノリフ・バレエってのが何処の組織のことか知らないけど……ん? ノリフ・バレエって、もしかして、ノリフ・オペラ座の……?」
「そうです……私、バレリーナなんです」
ここ首都ノリフにある、国立ノリフ・オペラ座が擁するバレエ団だ。俺もたまに一人でふらっと見に行く。
「バレリーナだったの? ……分かった、それは置いといて、俺を追っていた理由を聞こうか」
「ヤコフ、貴方が私の恩人だから! 貴方に間違いない! 覚えていませんか? アレキサスの路上で私と会ったのを……」
彼女の顔を見ながら記憶を走らせる。
アレキサス共和国はアジャルクシャンの北部の地域で、俺が組織に入る前まで育った場所だ。俺は孤児だったが、孤児の数に対して受け入れ体制が足りていなかったので、孤児院からあぶれ路上で暮らす子供が大勢いた。俺もそんなあぶれた一人だったる当時は不良グループのリーダーで、色々悪いこともした。
赤毛で色白の、人形のような顔をした少女を改めてまじまじと見つめる。そう言われてみれば、この顔に覚えがある。ぼんやりとした記憶を辿り、ようやくそれが鮮明になった。
「バレエシューズを買ってあげた、あの女の子が君なの?」
するとヴォルガの顔は笑顔に満ちた。
「思い出してくれたんですね!」
「確か、孤児院暮らしだったよね。俺と同じでいつも路上にいて、お腹を空かせてたあの」
「貴方はよく、私や他の子供達に食べ物を分けてくれましたよね」
そう、食べ物を分けていた。盗んだ金でだ。俺は不良の悪ガキだったんだ。
「君はずっとバレエを習いたがっていたね。それで奨学金で通えることになって」
「でもシューズを買う余裕もなかった」
「ボロボロのお古を使ってて」
「貴方が新しいシューズを買ってくれた。でも、それきり貴方はいなくなってしまって……」
その後すぐ組織に入って、組織の拠点があるキベルジア共和国へ移住したから、彼女に会うことはなくなった。すっかり思い出した。
「そうか。ちゃんとバレリーナになったんだね。嬉しいよ」
問い詰めて脅してしまったことを申し訳なく思った。感慨深いものが込み上げる。少女にシューズを買ってあげたことは、些細な日常の出来事の一つでしかなかったから、それ以来気にも止めていなかった。しかし、その少女が夢を叶えたことは、素直に嬉しい。俺にも人の心はある。
ヴォルガは瞳を潤ませながら、俺に近付いた。俺は腕を広げ、彼女を迎え入れた。そして優しく抱き締める。もしミュージカルなら二人のデュエットを歌い出すタイミングだし、バレエならここでリフトするところだ。
「ヤコフ、貴方が好き。……私を抱いてください」
「今、なんて?」
突然彼女の口から飛び出してきた言葉に面食らう。彼女は水色のビー玉のような瞳で、はっきりと俺を見つめていた。
「ヴォルガ、それは」
その時、階段の上方から非常扉が開く音と共に、けたたましい足音が聞こえてきた。複数の足音が、ダンダンと階段を下ってくる。
上から声がした。
「ソコロフスカヤの奴がそっちへ行った! 抑えろ!」
兄さんの声だ。同時に薄暗闇の中から大きな黒い人影が、俺のいる踊り場へ降り立った。
「くそっ! 今大事な話してるのに!」
ソコロフスカヤの仲間がいたようだ。俺は逃げ道を塞ごうと立ちはだかった。その大男が繰り出してきた拳を、肘で右、左と交互に受け流す。間髪を容れずに正面から、足の裏で男を後ろへ蹴り飛ばした。
大男は二歩ほど下がった。大男の体の重みに、反動で俺も少しよろめいてしまった。
「ヴォルガ、自分の言ってる意味が分かってる?」
「分かってます。私だって大人ですから」
「女をナンパしてる場合か!」
階段を降りて追いかけてきた兄さんが、後ろから男の首に腕を回し、体勢を崩しにかかる。男は腕から逃れ、兄さんに向かって行った。
「ナンパじゃない、勝手に決めつけるな! あんたは口を開けば俺に説教だな!」
つい余計なことを言ってしまった。兄さんと大男は連続パンチの応酬をしている。背後でヴォルガが言葉を続けた。
「何も言わずに姿を消してしまった貴方のことを、いつかもう一度、一目でいいから会いたいと思い続けてきたんです! だけど、やっとこうして会えたというのに貴方は私のことを覚えていないばかりか、女の人を口説いてばかり……。夢にまで見た再会がこれで終わりなんて、悲しすぎます……」
なぜだろう、たった今男に殴られた頬よりも心の方が痛い。
「だからせめて、その人達と同じように一晩だけ……いいえ一時間でもいいから、側にいて……!」
確かにパーティーでは何人か口説いたりしていたし、アンナの部屋へ入ってその後プリヤンカーを部屋に呼んだ。しかし違うのだ。
「まず、君だと気付かなくってごめん。でもそれは君があまりに美しく成長していたからで、それからえーと、女の部屋に行ったのも理由があってのことなんだ。決して下心のためじゃない! 断じて! 次に、俺だって君に会えて嬉しいけど、そういう行為をするのは別の話。俺は君に相応しくない」
俺は真剣にヴォルガを諭した。しかしそんな空気を突き破って兄さんの声が聞こえてくる。
「ナンパ以外にどう見ろと? お前の日頃の行いから推測した当然の発想だ!」
兄さんは大男の脛に足を絡ませ、男がバランスを崩したところを足裏で突き飛ばした。同時に俺へ言い返すことも忘れない。
「それとさっきの浣腸てどういう意味だ? お前の態度について後で話がある」
「それはもういいってば!」
いつの間にか敵はもう一人増えていた。兄さんは階段の上から蹴りかかってきた別の男の対処に向かって行った。
突き飛ばされた男は再び俺の方へ向かう。踊り場の角へ追い詰められ、ヴォルガを背中にして庇う。男は遠心力で腕を振り回すように、重みのある拳を食らわせてきた。万が一にも受け流した拳が彼女に当たらないよう、自分の腕でブロックした。二の腕に痺れが走る。
背後からヴォルガのすすり泣く声が聞こえた。さぞ恐怖を感じているだろう。
「大丈夫、君には当てさせないから」
「……私じゃだめなんですか? 他の人はよくって、どうして私じゃだめなの……?」
「そっち?」
確かに思春期にとっては恋愛の悩みの方が、命の危険よりも重要な問題かもしれない。
後ろ手に柵を掴み、柵に体重を預けて両足で男の顔を蹴った。男が後退りし、何とか男を柵から引き離すことができた。
目の前の男が左足で蹴り上げてきたので外側へ避けて背後に回り、男の腕と足に同時に力をかけて地面に倒した。男が倒れた隙に、ヴォルガには下へ行くよう促した。彼女はドレスの裾を持ち上げてカツカツと非常階段を降りていく。
俺は男に馬乗りになった。
「なあ兄貴、毎度理由も聞かずに喧嘩腰なあんたの態度こそどうかと思うね! あんたと違って人付き合いも俺の仕事なんだよ!」
格闘の最中にも関わらず説教しようとしてくる兄貴分に、正直な思いの丈をぶちまける。
「誤解なら悪かった! いつも商談をまとめてるお前には感謝してる」
連続して響く鈍い金属音と共に、強い剣幕の兄さんの声が聞こえる。
馬乗りになった男の頭を連続で殴りながら、俺も負けじと怒鳴り返す。
「そうやって素直に認めるところはやっぱ尊敬するよ!」
俺の股の間に転がっている大男が抵抗してマウントを取ろうとする。そのまま揉み合い、階段を転がり落ちた。
俺の体は一階下の柵へぶつかって止まった。即座に立ち上がる。その横で、ヴォルガが震えていた。再び彼女を背中に庇う。
「ヴォルガ、自分を大事にしろよ。簡単に男に体を許しちゃいけないよ。君を大事にしてくれる人に出会うまでは。いいね?」
俺が求めているのは楽しいセックスライフ。でも彼女が求めている物はそうじゃないはずだ。夢を追いかける純朴な少女を、俺が汚すわけにはいかない。
横目に見える彼女がかろうじて頷いた気がした。
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