第9話 思い出の少女
男が大きな両腕で俺の首を掴み、チョークを掛けてくる。この体格差では俺が不利だ。上から男の手を掴んで自分の体を捻り、力を緩めようと試みる。両者が拮抗して動きが止まった。
その時、非常階段の扉が開く音がして、複数の足音がガンガンとなだれ込んできた。
「お巡りさん、こっちです! あそこで暴れてる男の人達!」
上の階から太い男の声がする。鉄の階段を鳴らす足音が、こちらへ近付いていた。誰かが警官を呼んだようだ。ここで捕まってはまずい。今日は何もしていないから、逮捕されたところですぐに釈放される——とはいえ、拘束されれば仕事に大いに支障が出る。
揉み合っていた相手も同じことを考えたのか、ほぼ同時に手を離した。大男は真っ先に階段の下へ駆け出した。
一階分上にいる兄さんともう一人の男も、階段を降りてくる気配がした。しかしここにヴォルガを残しては、逃げるわけにはいかない。彼女が後で警察に何を言うか分からないから——ああ正義感とかじゃない。俺は自己中心的な奴さ。
そう考えていると、兄さんと戦っていた若い男が階段を降りてきて、俺達を無視して素早い身のこなしで下へ向かって行った。兄さんも勢いよく階段を駆け降りて、その男に続いた。やっぱり俺達のことは無視だ。
上からは足音が迫ってくる。仕方がないので、ヴォルガを小麦袋のように肩に担いだ。幸い細身で軽く、持ちやすい。
「ひゃっ!」
問答無用で階段を降りる。
一階分降りたところで、非常階段の入り口からホテルの中へ戻った。どうせ階段では逃げ切れない。追手がそのまま兄さん達を追ってくれればいいと思ったのだ。
廊下にいた他の客がこちらを二度見して来たが、気にしない。
俺は彼女を肩から下ろし、自分の服をはたいて乱れを直した。右腕を彼女に差し出す。彼女はその腕に手を回す。
「自然にして」
こうして腕を組んで歩けば、普通の品のいいカップルに見えないこともないはずだ。
彼女の表情を見る。彼女は顔を赤らめてこちらを見上げた。怖がっている様子がないので安心した。
高級感のある絨毯の上を二人で歩きながら、話しかけた。
「そう言えば、どうやってこのパーティーに参加できたの? 一人?」
「ファンが招待状をくれたんです。ファンに官僚の人がいて」
「両親はいないんだったね」
「はい。今はノリフの寮で暮らしてます。寮といっても、普通の家を団員で借りて住んでいるだけですが」
「だから好きなだけ夜遊びできるってわけか」
時計を見ると、午前二時になる手前。追っ手が来る気配はない。エレベーターホールへ向かい、二人でエレベーターへ乗り込んだ。
「……貴方が違う世界にいるのは何となく分かりました。だから私と付き合えないのですか」
降っていく箱の中で、彼女は静かに呟く。
「うん、まあ」
その理由は少し違うが、そういうことにしておこう。俺だって一晩の相手ならいくらでもしたい。だが、彼女には俺なんかに惑わされず、もっとまともな奴と付き合って欲しいのだ。彼女は思い出の中で美化された想像上の俺に恋してるだけなんだから。
「俺がどう思われてるか知らないけどさ、俺は君が好きになるような男じゃない。いつか、本当の意味で誰かを好きになったときのために、その気持ちは取っておいてよ」
ヴォルガに対しては、妹分のジルに対する感情と似たものを抱いてしまう。俺にとっても美しい思い出の少女だ。清らかでいて欲しいのだ。
悲しそうに俺を見上げて潤んだ瞳を見ると、胸がズキズキと痛む。だが彼女のためだと自分に言い聞かせる。
「わか……りました」
エレベーターが一階ロビーへ到着した。この時間は照明を落とし、フロントマンが一人いるだけで静かだ。平穏で、警察がいる気配もない。
正面玄関前の車寄せまで彼女を送った。
「ヤコフ……これからも友達でいてくださいますか?」
「もちろん」
「どうか私の公演を見に来てくださいね」
「うん、約束する。君が驚くくらいありったけの花を送るよ」
寂しそうな表情の彼女は、唇の端を上げて微笑んだ。
タクシーの扉が閉まる。
「もう夜遅くに出歩くんじゃないよ!」
手を振って、タクシーが走り去るのを見送った。
回転扉を抜けて、再びホテルへ戻る。どうにかヴォルガを無事に帰すことができた。一仕事を終えた気分になるが、肝心な仕事は何も終わっていない。まだロリータと接触すらできていないというのに。
ロビーの奥の廊下に、黒スーツに蝶ネクタイの黒髪の男——兄さんの姿が見えた。警察やソコロフスカヤの姿はない。逃げ切れたのだろうか。
佇んで俺を待っていたようだ。彼に歩み寄った俺は、思わず顔を歪めた。
「うっわ! くっさ! ゴミ収集車がゲロ吐いたみたいな臭いだ! 何があったんだよオェェェ……」
「奴らが二人がかりでかかって来て、気付いたらゴミ箱に投げ込まれてた。死にかけた上に結局逃げられたぞ」
兄さんが小声で説明した。スーツは得体の知れない色をしたドロドロの何かで汚れ、頭からはパスタのような物がぶら下がっている。殴られた後が痛々しい。
「あのう、お客様……失礼ですがそのような格好で当ホテルのご利用は」
恐る恐る近づいて来たホテルマンが、遠慮がちに声をかけた。
「あぁん?! うちの兄貴に文句でもあんのか? 事情も知らねえで今度兄貴にそんな口聞いたらてめえのチ*コもいで食ってやるからな、引っ込んでろクソ野郎」
ホテルマンは後退りして押し黙った。
兄さんが襟を整えようとすると、シャツの間からゴキブリが飛び立ち、ホテルマンの顔を横切って行った。
そのまま彼を連れ、ひとまずトイレへ入った。
「あの赤毛女は?」
スーツの汚れを落としながら兄さんが尋ねる。
「ヴォルガならタクシーに乗せて帰したよ。彼女は普通の民間人だった」
「俺達を見られた。会話も聞かれた。大丈夫か?」
「うん。思春期だから俺との関係のことしか頭にないはず」
「思春期……ってそうなのか?」
彼の顔に呆れと疑問が浮かぶ。
「そういうものでしょ。兄さんはあの年の頃何考えてた?」
「俺は周りの奴と違って最強の選ばれた存在で世界を変えられる——と思っていたが?」
「それは見事な思春期だね」
さておき、話を戻す。
「結局ロリータは現れなかったね。まさか商談をすっぽかすつもりじゃないだろうな?」
俺が訝しげに言うと、兄さんの目付きが、何やら確信を持ったものに変わった。
「ロリータは見つけた」
「本当に?」
「ついて来い」
兄さんは一方的に歩き出す。
怪しいと思ったクリス、プリヤンカー、アンナ、ヴォルガ、皆違ったと思う。他にそれらしい人物は思い当たらない。姿を隠していたとしか思えない。
「さっき話して、会う約束をした」
どうやら俺の知らない間に見つけて話を付けていたらしい。黙って後に従った。
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