第7話 抱けない場合もある
窓の外には冷やりとした風が吹く。手を少し緩めると、女の体はもう一段階落ち、ほとんど窓の外へ吊された状態になった。女の声は恐怖でか細くなり、必死の表情で懇願する。
「お願い、助けて……! 私はアンナ、上司はメドヴェチ。上司の指示よ! ディアマンテ・ローザの一人からこの取引のことを聞き出したの……! ロリータの正体を掴むのが目的だった……! 貴方に危害を加えるつもりは無かったの……!」
——今夜のパーティーで殺人は都合が悪いな。ここはしかるべき所に任せるか。
アンナと名乗ったロシアンマフィアの女を窓から引き上げた。再びベッドに転がし、下着の中を弄る。白い粉の入った小さな袋が出てきた。
「コークだね?」
アンナが頷く。袋は一旦脇に置いた。
女のドレスは乱れ、胸元ははだけて乳房までも露わになっている。その姿を見ていると嫌でも体が反応して悶々とするのだが、俺に薬を盛った女を抱く気にはなれない。
俺は携帯電話を取り出し、一番新しく登録された番号へ電話をかけた。
「もしもし、プリヤンカー? さっき一緒に踊ったヤコフだよ。まだ会場にいる? ……ちょっと助けて欲しいんだけど、来てくれない? 1135室だ」
俺の電話で1135室の前へやって来たプリヤンカーに対し、予め念押しした。
「誤解しないで欲しいんだけど、俺は被害者だからね。俺が襲われたの。知らない女に部屋へ誘われて、夢のある展開を期待して来てみたら、酒に薬を入れられたの」
そう言って部屋の扉を開け、彼女を招き入れた。全く嘘は言っていない。
アンナは部屋のシーツで巻いて逃げられないようにしてある。ローテーブルの上に残されたショットグラスやソファに掛けられた上着を見せ、手短に説明した。
「それを調べてくれれば、俺に盛った薬が出ると思うよ。大事な証拠品だからよろしくね」
そしてベッドの上へ視線を移す。
「その袋はコークっぽい。そいつは多分常習者だよ、体に注射針の跡があるから。あ、俺はやってないよ。もし俺の尿が欲しければ言って。なんなら君が直々に取ってくれても全然いいし」
「ふうん……」
プリヤンカーは俺のジョークに取り合うこともなく、顎に手を当てて室内を見渡した。インド風のスカートの中に手を突っ込み、おもむろに手袋を取り出した。彼女は手袋をはめ、白い粉の袋を手に取り匂いを嗅いだ。袋の中で、粉がさらさらと流れる。色は真っ白だ。混ぜ物のない、純度の高いコカインだと睨む。
再びプリヤンカーはスカートの中に手を突っ込み、今度は無線と手錠を取り出した。
——何でも出てくるな。
「違法薬物を発見。容疑者を確保したわ。応援お願い」
彼女はアンナの手に手錠をかける。それから俺の方を向いた。
「通報ありがとう、ヤコフ。取りあえず貴方のおしっこは必要ないわ」
その後二人の警官が到着し、証拠品を押収していった。俺は三十分ほど事情を聞かれた。
外野が増えたので、兄さんは気配を消していて見当たらない。だが、兄さんの手を煩わせるまでもなく俺一人で片付いた。
アンナの一件は、ソコロフスカヤのグループの一派が単独で動いたのだろう。後日顔馴染みのボスに連絡して、落とし前を請求しよう。
「もう帰ってもいい?」
俺はプリヤンカーに尋ねた。
「いいわ」
「まだパーティーの警備を続けるの?」
「もうパーティーは終わったわ。あたし達は一晩中警備を続けるけどね」
彼女は頼もしく微笑んだ。去るのが名残惜しい。
「でも、あたしが警官だっていつ言ったかしら?」
「えっと、男の勘てやつ……?」
「ふうん」
天井に目が泳ぐ。スカートの上からさりげなく触ったことがきっかけだったのだが、そうと知られると気まずい。彼女が会場に武器を持ちこめていること、会場内に警備員がいなかったことから、景観を気にして私服警官を客に紛れさせているのだろうと想像が付いた。それと、酒を飲んでいなかったこともだ。
プリヤンカーが意味深にジッと俺を睨み、そして僅かに笑った。詮索は止めておいてあげるとでも言わんばかりに。
「行っていいわよ」
「ありがとう。……警察の仕事とか関係なく、俺とデートする気ある?」
そう尋ねると彼女は顎を上に向けて考える仕草をした。
「あたし、仕事が優先だから貴方とは難しいかなあ」
「だよね。じゃ、仕事頑張って」
部屋を出て、ようやく緊張から解放された。胸を撫で下ろして一息つく。
女との接触も気が抜けなかったが、警官であるプリヤンカーと会話するのも疲れる。今のところ俺に疑いがかかることはなさそうだ。いや、きな臭さを感じ取ったかもしれないが、深入りせずに見逃してくれたのだ。彼女は魅力的だが、警官と深い仲になるのは要らぬリスクを呼び込むことになる。残念ながらもう会うことはないだろう。
時間は深夜一時。安全を確認したのか、どこからともなく兄さんが姿を現した。エレベーターに乗り込んで、下へ向かう。
「やっと警察から解放されたよ。早くロリータを探さなきゃ」
「ソコロフスカヤにも注意しろ。あの女の他にも会場に紛れ込んでるはずだ。俺はそっちを探す」
彼の言う通りだ。アンナの仲間がいないとは考えにくい。
下の階でドアが開き、別の客が乗り込んできた。その様子を見た俺と兄さんは、無言で顔を見合わせる。
クリスに言い寄っていたあの小太りの男だ。帰り支度をして、小さなスーツケースの他に黒い鞄を何やら大事そうに持っていた。その様子からして、今からチェックアウトするのだろう。
部屋を取っていると言っていたが、わざわざこの深夜に出ていくのは不自然だ。それに、人目から隠したい素振りを見せているあの鞄——。
俺たちはそのまま男に合わせ、一階ロビーで降りた。パーティーは終わっているが、その余韻を楽しむかのように談笑する人の姿があちこちに見える。男から少し離れて歩きながら、兄さんが囁く。
「あの挙動、後ろめたい物を持ってる証拠だ。鞄に何か隠してる」
「だね。けど、荷物の検査があったよね。どうやってすり抜けたんだ」
アンナは下着の中に隠すことで検査をすり抜けていた。あの男がアンナの仲間で、鞄の中がコカインだとしてもそう簡単にX線検査を通過できるはずがない。
「あいつはVIP待遇で招待されてるナジャモの資産家コワルチュクだ。政治家とも仲がいい。特別待遇で検査はどうにでもなる」
「ははん」
大方ソコロフスカヤ・ブラトヴァと通じているのだろう。となると、クリスへの脅し文句は、あながち嘘ではなかったわけだ。
そう話している間に、男——コワルチュクは出口の回転扉に向かっていく。
「逃げられる!」
「さっきと同じ方法でやるぞ。多少強引にでも止めるんだ」
兄さんと目で合図し、同時に行動を開始する。外へ出られると面倒だ。偶然を装って正体を暴き、警備員に見つけさせるのが理想だ。
「おっと失礼!」
ロビーのコーヒーサーバーで入れたアイスコーヒーを持って、兄さんがコワルチュクに体当たりした。コワルチュクが派手にひっくり返り、持っていた荷物が宙を舞った。彼の黒い鞄にコーヒーがかかる。
「うわあ、なんだ貴様は!」
——おいおい、今のは強引すぎないか?
そう思いつつ、俺は心配するフリをして近付いた。
「お怪我はありませんか? ああっ大変だ! 鞄にコーヒーが! 中身が濡れてしまう! 今出しますね」
不自然に大きな声で警備員の注目を集めつつ、鞄を奪う。
「やめろ! 勝手に触るな! 返せ!」
コワルチュクが奪い返しに来るよりも早く、俺は鞄を開け、中身を一気に床へぶちまけた。
「やめろ−−!!!」
その瞬間、ざわついていたロビーが静まりかえる。その場にいた人々が皆、息を飲んだ。俺も含めてだ。
床に広がっているのは、男性器の形をしたゴム状の物体を始め、大人のオモチャの数々だった。中にはアダルトDVDもある。ドアマンや他の客も反応に困って遠巻きに傍観している。申し訳ない気持ちで一杯になった。言葉も出ないコワルチュクの様子が痛々しい。
——誰だ、怪しいなんて言った奴。
顔を上げて見渡すと、原因を作った張本人である兄さんは、さっさと逃げてどこにもいない。
「いやー、散らかしちゃってごめん。へえ、女子高生モノかぁ。良い趣味してるね」
大人のグッズを拾い集め、コワルチュクの肩を叩いた。コワルチュクは肩を震わせながらこちらを睨んでいる。
「あなた!! 何をしているの?!」
怒鳴り声がして見上げると、たった今扉から入ってきた大柄の女が、男を見下ろしていた。
「おまえ……! もう着いたのか」
「今から行くって連絡したのに、どこに行こうとしてるわけ? まさか逃げるつもりじゃないわよね? ははー……」
大柄な中年の女が、床に散らばったグッズに気付く。それを見たコワルチュクの瞳は、絶望の色をしていた。
「違うんだ、これは!」
「動かぬ証拠ね。アタシに隠れて女と遊んでたってわけ?! バレないように逃げるつもりだったんでしょ?! このグズ!」
女の迫力に呆然としていると、コワルチュクは彼女に引っ張られながら外へと消えて行った。その場には、アダルトグッズと俺だけが残された。
浮気を疑った奥さんがホテルに押しかけてきそうになったから、慌ててホテルを出ようとしたというのが真相のようだ。嫌な奴だったが、俺たちがあんなことをしなければバレていなかったかも知れない。気の毒に。
俺は責任を持ってグッズを拾い、その場を離れた。
「ふうん、スカトロかぁ……コワルチュクはそういう趣味だったんだな。俺には理解できないな」
グッズを自分の部屋に置いたあと、再び兄さんとロリータを探した。
絨毯張りの長い廊下の両脇に、間隔を置いて重厚感のある扉が並ぶ。突き当たりには非常階段のサインが見えた。照明はやや薄暗く、人はいない。
回廊の中央にはエレベーターホールがある。人がいるが兄さんの姿はないので、そのまま通り過ぎ、非常階段を目指す。
——ん?
一度通り過ぎた足を戻す。見覚えのある人影だった。そこには、色白の女がいた。編み込んだ長い赤毛に、十九世紀風のロングドレスを着た、絵画から抜け出て来たような姿の少女が。
「君はヴォルガ! なぜここに?」
彼女は一人だった。俺は睨みながら詰め寄った。
「ヤコフ……!」
まだ付近に警察がいる。ここで面倒は御免だ。俺はヴォルガの腕を掴み、急いで引っ張りながら廊下を進んだ。そして非常階段へ出た。
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