第2話 デートに誘おう

 私の名前はロリータ。今夜のパーティーで特別な人に会える予感がして、いつもより念入りに支度をする。ファンシーなパステルカラーのインテリアで統一した、私の秘密の部屋で。

 お気に入りのロココ調の鏡の前で頬に粉を叩いて、ナチュラルなリップカラーを塗る。

 家を出る前、電話で上司に連絡を入れた。

「もしもし、カチューシャ? 今から商談、行ってくるわね」

「行ってらっしゃい、ロリータ。……気をつけて。今日の商談相手はルーベンノファミリーだけど、他の組織が横槍を入れてくるかも知れないわ。特に黄龍会やソコロフスカヤ・ブラトヴァ辺り」

「ええ」


 アジャルクシャンへ引っ越して来てまだ間もないけれど、やっと暮らしが落ち着いてきた。ノリフは首都だけあって、ショッピングモールやレストラン、映画館など、生活を楽しむには十分な物が揃っている。露店商で掘り出し物のインテリアを探すのも楽しい。


 私はアパートを出て、ノリフ市街の石畳へと軽やかに足を踏み出した。




——————————




 俺はヤコフ。

 今、パーティーが開催されるホテルの一室で格好を整えている。今夜はパーティーのため、この高級ホテルに部屋を取った。

 鏡の前でダークブロンドの髪にジェルを付け、櫛でといて流す。金の刺繍をあしらった黒いジャケットを羽織り、ポケットにはハンカチとコンドーム。胸元に紺色の薔薇を刺した。

 身だしなみは完璧。最後に鏡に向かって微笑んで見せた。純朴そうにも見える甘いマスクで微笑みかけ、青い瞳からフェロモン光線を出せば、落ちない女はいない。

 要人が集まる今夜は、ホテル入り口のセキュリティは普段の数倍厳しい。金属探知機と持ち物検査があり、俺も当然怪しまれる物は一切持ってきていない。

 パーティー会場は最上階の大広間、そして屋上のバーエリアもパーティー用に貸し切られているという。



「ようこそ、ヤコフ・ヴォズニセンスキー様」

 会場内は既に人で賑わっている。主催者の挨拶は適当に聞いている振りをしつつ、会場の様子を窺った。高い天井から複数のシャンデリアが吊るされ、壁は花で装飾されている。白いクロスのかかった円テーブルにはキャンドルが灯り、その間をウェイターがグラスを持って周っていた。

 パーティーには二百人ほどが参加するようだが、着飾った人々が集まる様は、会場の豪華な装飾が霞んで見えるほど圧巻だった。女達のドレスも色鮮やかで眩く、皆美しい。仕事のついでに何人か持ち帰っても構わないだろう——なんて物色してみる。


 闇組織というと戦争や抗争ばかりしているイメージがあるかも知れないが、その日常は普通のビジネスマンとそう変わりない。特に、この国の組織は表の稼業を兼ねていることが多い。皆、表の顔で堂々とこのような場所に顔を出す。この国の政治家は買収されているので、組織の末端構成員が逮捕されることはあっても、上が逮捕されることはない。

 だから見知った顔も多い。懇意にしている銀行員や、他の組織の幹部の姿が見える。人だかりに囲まれたガタイのいい男を見つけて俺は近付いた。アジャルクシャン北部で活動する組織の幹部だ。


 ——挨拶しておくか。


「ご機嫌よう、セルゲイ」

「よお若頭、来てたのか」

 正確には若頭の筆頭は兄さんの方だが、彼は影の任務を担うため普段から表舞台には出ない。

「奥さん元気?」

「ああ元気だよ。今日は来てないんだ。もうすぐ二人目が生まれるからな」

「おめでとう。奥さんと子供は大事にしろよ。何かあったらお前の責任だ」

「それは脅迫かい?」

「ハハハ、よしてくれよ」


 知った顔に挨拶しながら、会場を歩く。これもビジネスに必要な付き合いだ。いつロリータが接触して来るか分からないので、それらしき人物に注意を払うことも忘れない。

 目の先に、紺のリボンを頭に巻いた挙動不審な女がいた。長い黒髪を束ねて横に流し、その上に紺色の髪飾りを付けていた。細身の水色のドレスが清楚な雰囲気を醸し出している。

 一人で周囲をキョロキョロと窺っている。東洋人で、高校生くらいにも見えるしいい大人にも見える——東洋人の年齢は想像が難しい。浮いた雰囲気からして、この辺りに住んでいる者ではない。外国人だ。

 ウェイターがシャンパンを差し出すと戸惑っていた。


「これ? もらっていいの?」

「もちろんです。白、赤、ロゼのヴァリエーションがありますよ」

「ありがとう」


 彼女はグラスを受け取ると、それを慎重に持ちながら恐る恐る歩き出す。ハイヒールを履き慣れていないのだろうか。危なっかしく思いながら見ていると、彼女はいきなりバランスを崩し、前につまづいた。

「どわっ!」

 体とグラスの中身は、真っ直ぐと俺の方へ。

 俺は倒れてきた肩を紳士的に支え、手から落ちかけたグラスを拾い上げた。


「大丈夫? 濡れちゃったね」

「あ! ごめんなさい!」

 俺は胸のポケットからハンカチを取り出し、慌てふためく彼女の腕を拭った——つもりでいたのだが、それを見た彼女は突然硬直した。俺の手の先を見つめる目が点になっている。気付けば、手の中には何故かコンドームがあった。


 ——やべっ。


 いい雰囲気になった時いつでも取り出せるよう、ハンカチとコンドームを同じポケットに入れていたのだ。少し気持ちが先走ってしまったようだ。普段から当たり前にやっている動作だから、今回もごく自然にコンドームを取り出してしまった。


「ああ、うっかり間違えちゃったよ。決して、君が魅力的なばかりに俺の潜在意識がそうさせたわけじゃない」

 ここは誤魔化しようがない。正直に謝るのが最善だろう。

 しかし女は不安げな顔を上げ、ふっと笑みをこぼした。

「貴方、面白いね」

 先ほどまでの申し訳なさそうな表情から一転して、不意に溢れた微笑みに思わずドキリとしてしまう。思いがけず緊張を緩める効果もあったようだ。

 ともかく切り抜けたようだ。

「私より貴方のジャケットが」

「気にしないで。君が選んだのが白でよかった」



「お二人とも、大丈夫ですか?」

 ウェイターが手拭いを持ってきた。濡れた手拭いで胸を軽く拭う。ついでに二人分のグラスを受け取った。

「あの……本当にごめん」

「平気平気。俺はヤコフ」

「クリスだ」

 二人で乾杯して、グラスを飲み干した。

「アジャルクシャンは初めて?」

「ああ、アジャル語が分からないから心細くて。貴方いい人だね。英語で話しかけてくれて安心したよ」

「初めてならそうだよね。どこから来たの?」

「日本から。でも仕事のために色々な国を周ってるんだ」

「冒険家だね。尊敬するよ」


 東洋人の女、クリスとそれなりに会話が進むと、ぎこちなかった彼女の表情にも笑顔が見え始めた。

 始めは不審だったので組織の関係者を疑ったが、考えにくい。関係者ならもっと自然に目立たないよう振る舞うはずだ。だが、念のため聞いてみた。


「ノリフは良いところだよ。そうだ、ノリフ・オペラ座は行った?」

「いいや」

「あそこは伝統ある劇場で、演目のレベルも高い。もし良ければ招待するよ。君はどれが好き? オペラ、バレエ、オーケストラ……君のために桟敷さじきを貸し切るよ」


 押しの言葉と共に、穏やかな視線で微笑みかけた。もし彼女がロリータならバレエと答えるだろうし、そうでなければ只のデートだ。

 そう言えば劇場でのデートというのはあまりしたことが無い。”バレエ”と言うキーワードが無ければこの誘い文句は出てこなかっただろう。ベッドインするには少し遠回りだからな。


 ——でも、貸切の桟敷でこっそりイケナイことをするってのも、ありかも……。


 妄想が広がる。

「お誘いありがとう。でも、他にもやらなきゃいけないことが沢山あって時間がないんだ。いつかまたアジャルクシャンへ来ることがあったら、その時はぜひ」


 誘いは交わされてしまった。でも気にはしていない。一度目の誘いで断られることもある。徐々に心の距離を縮めて、二度目、三度目と畳み掛けることが肝心だ。

 少なくとも彼女はロリータではない。後でまた話をしようと言い、一度クリスと離れた。


 再び会場内を広く見渡す。先ほどクリスと話している時から、複数の人の視線を感じていた。組織の関係者かも知れないし、単純に俺に興味があるのかも知れない。だがそのうちの一人は、紺色のドレスを着た栗毛の女だった。

 人混みの中を探してみるが、その女の姿は見当たらない。


 ——まあ、ロリータは向こうから接触してくるはずだし、焦らなくてもいいか。


 会場の一角では楽団が生演奏しており、正面の奥には彩美しいブッフェのテーブルが並ぶ。

 その中で一際目立つ女がいた。大量のストーンで光り輝く、上下に分かれたインド風のドレスに、髪から額の中央に吊るした丸い金色の飾り。そして紺色の長いピアスを付けていた。

「素敵なドレスだね」

 俺が声をかけると、女は振り向いてにこやかに笑った。

「あら、ありがとう」

 クルクルとカールした黒髪に、丸い大きな瞳を持つ女だった。幼く見えるが、やはり年齢はよく分からない。


「貴方のような紳士にそう言ってもらえて嬉しいわ」

「凄く似合ってて素敵だ。君はアジャルクシャンの人?」

「そうよ。両親はインド出身だけどね」

「通りで異国情緒があるわけだ。あ、俺はヤコフ」

「あたしはプリヤンカー。よろしくね」

 ここでもまた乾杯した。

「お仕事は何をしてるの?」

 彼女の方から質問が飛ぶ。多少は興味を持たれているサインだ。

「不動産や鉱山を管理してるんだ」

「その若さで凄いわね」

「父親のおかげさ。俺は大したことないよ」


 セパレートのドレスの間から覗く褐色の肌が眩しいが、それよりもその割れた腹筋が目に入った。

「いいスタイルしてるね。……あ、変な意味じゃないよ。随分と鍛えてるんだなって思って」

 俺の発言を訝しがることもなく、彼女は笑顔のまま答えた。

「ふふふ、ダンスやってるの」

「ダンスってどんな? やっぱりこれ?」

 俺は手のひらを天井に向かって上げながらリズムを取って見せた。それを見たプリヤンカーは吹き出した。


「ボリウッドのつもり? ええ、貴方の想像通りよ」

「ごめん、あまり見たことがなくってさ。どんな風に踊るのか教えてくれる?」

「いいわ。この部屋で演奏している曲じゃ踊りにくいし、後で屋上へ行ったときにでも教えてあげる」

「確かに、優雅なクラシックじゃね。屋上はどんな風なの?」

「お洒落なバーカウンターがあって、ダンスミュージックがかかってるわ」

「へえ、君が手取り足取り教えてくれるなら身が入りそうだ」

 俺はプリヤンカーの瞳を覗き込むように顔を近づけた。

「それじゃ、ご機嫌よう」

 しばらく会話を交わしたのち、彼女は華麗にスカートを翻し、俺から離れて行った。


 そのとき、黒髪の男が真横を横切った。その姿を確認した俺は、踵を返して会場の出口へ向かう。そのまま男——変装した兄さんの後を追って、会場から離れた人気のない男子トイレへ入った。

 金髪を黒く染め、ブラウンのファンデーションをして付け髭で顔を覆った兄さんは、いつもより十は老けて見えた。ここでは別行動し、あくまで他人として振る舞っている。

 慎重に人がいないことを確認してから、俺は口を開いた。


「ねえ兄さん、案外若くて良い女が多いね。品もあるし。そうだ、競争しない? 今夜どっちが先にベッドへ連れ込めるか」


 兄さんの冷たい視線が刺さる。

「冗談だよ!」

「目的を忘れてないだろうな?」

「もちろん。まだ商談相手からのコンタクトはない」

「こっちもまだそれらしい人物は見つけていない。……それと、あのインド女には近付くな」

「あ、ごめん狙ってた? 心配しないで。あんたに譲るからさ」

「そうじゃない、女の腰を見てみろ」

「ああ、鍛えられた良い腰してるよね。”締まり”も良さそう」

「お前の脳はキン*マに付いてるのか」


 そろそろ本気で怒らせてしまいそうなので、からかいはここまでにしておこう。兄さんは真面目だが、俺だって態度がふざけてるだけで仕事はしている。


「分かってる。それで……」

 

 プリヤンカーについて何を言おうとしたのか聞こうとしたが、誰かが近づいて来る足音がしたので口をつぐみ、元通り他人の振りをした。

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